2012年12月23日日曜日

語り継ぎたい歴史「ウォーターゲート事件」


アメリカ史上で唯一、任期途中で辞職した大統領リチャード・ニクソン。彼の名前を歴史に刻んだウォーターゲート事件は、決して公にしてはいけない国家の闇を、アメリカ市民が垣間見た出来事でした。共和党の大統領候補者が、決選の日まで僅か5か月という時期に、なぜ、民主党本部を盗聴しようなどと考えたのか? 今回はその全容と、さらに深い闇の存在を語ります。

 

事件は1972年6月17日午前2時少し過ぎ、ワシントンDCのウォーターゲートビル6階にある民主党本部で、5人の男性が不法侵入により逮捕された事から始まります。当初は単なる窃盗犯と思われた5人の中に、ニクソン大統領の再選をめざす「大統領再選委員会」の関係者が含まれていたのです。これを19日朝、ワシントン・ポスト紙が一面トップで報じました。ホワイトハウスは事件の関与を完全否定するものの、ポスト紙はその後も、大統領を含む政府高官の関与、証拠隠滅、捜査妨害などを示唆する記事を次々と掲載。民主党本部に侵入した5人と、大統領再選委員会のふたりを合わせた7人が、盗聴など8つの罪で告発されました。彼らは、「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれたそうですよ。連邦高裁は、盗聴テープの提出をホワイトハウスに要求。しかしニクソン大統領はそれを拒否し、さらに大統領権限により、特別検察官の解雇やウォーターゲート特別連邦検察局の廃止などを行うと公表しました。もみ消し工作としか受け取れないこの行動が、ニクソン大統領を孤立無援の状態に追い込んだのです。1974年8月8日、彼はテレビカメラに向かい、大統領職の辞任を発表しました。

 

リチャード・ニクソン氏は、大統領になる前までの政治活動の中で何度も敗戦を経験し、選挙に対する不安と政界への猜疑心が非常に強かったと言います。そのため、ニクソン陣営の諜報活動は選挙対策だけではなく、ほぼ日常的におこなわれていたようです。民主党本部の盗聴は、単にその「日常活動」のひとつだったのです。選挙資金で私立探偵まで雇っていたそうです。「相手が何を考え、どう動くのか知りたい」。これが、ウォーターゲート事件の表向きの動機と言えるでしょう。実はこの事件には、さらに深い闇の存在を示唆する事実があります。歴史研究家たちが、「静かなるクーデター」と呼ぶ軍部の動きです。

 

ニクソン氏は大統領就任後、ベトナム戦争の休戦を推進したり、ソ連や中国を訪問して冷戦時代の緊張の緩和を推し進めました。こうした動きを、軍部は当然よく思いません。ウォーターゲート事件がホワイトハウスを震撼させるまでに至ったそのキッカケは、ワシントン・ポスト紙の「特ダネ」であり、その記事を書いた人物こそ、国防省に勤めていた元軍人だったのです。また、ホワイトハウスで彼の報告を受けていた大統領補佐官も陸軍大佐でした。つまり、軍の上層部にいた人物たちが、組織の指示で大統領失脚を図った…という説です。ただしこれは、現在でも仮説でしかないのです。

 

アメリカ市民が垣間見た巨大な闇、「ウォーターゲート事件」。もしかしたらそこには、国家の闇よりさらに深い軍部の闇が潜んでいたかもしれません。

2012年12月2日日曜日

元禄赤穂事件あれこれ


戦のない平穏な江戸の世に生きる人々を熱くした出来事。その発端から47人の志士の行動、そして最期までを「元禄赤穂事件」と言い、それを主題にした浄瑠璃・歌舞伎・講談などの一系統が「忠臣蔵」と呼ばれます。現在では時代劇の定番であり、日本人ならば誰もがよく知るお話ですね。その内容は今さら記すまでもないので、今回は、様々な資料の中から元禄赤穂事件の面白いお話を幾つか紹介します。

 

《 必ず当たる芝居 》

江戸庶民を惹き付けたこの出来事は、赤穂浪士たちの切腹から僅か12日後の1703年2月16日に最初の芝居が演じられました。当時は、徳川幕府が事実に基づいた実録風の芝居を禁じていたため、鎌倉時代の曽我兄弟の物語になぞらえて上演されましたが、3日間で終わってしまったそうです。しかし1706年、近松門左衛門が人形浄瑠璃でこれを演じ、また歌舞伎でも数多くの舞台が披露されます。幕府の思惑など吹き飛ばす江戸の庶民パワーで、その後は何度も上演され、芝居の当たり定番となりました。

 

《 松の廊下の真実 》

忠臣蔵の物語の中でも、とくによく知られた場面が「松の廊下」の事件ですね。例の「で…殿中でござる」です。この事件は、その場に居合わせ浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を押さえたと言われる梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)の日記に記されています。実はその日記には、「殿中」の場所が松の廊下だったとは記されておらず、研究家の中には表白書院の大廊下ではないかと考える人もいます。つまり、壁も襖も真っ白な場所で、それでは芝居にしたとき絵にならないと、劇作家が後付けで考えたかもしれないのです。

 

《 内匠頭の御馳走役 》

天皇の勅使をおもてなしする御馳走役、現代風に言えば宴会の幹事でしょうか。忠臣蔵では、これが初めての浅野内匠頭が慣れない仕事に戸惑うワケですが、史実はそうではないようです。実は17歳にして、朝鮮からの勅使の御馳走役に抜擢されており、江戸城内での仕事は3回目でした。しかも、前の2回も吉良上野介が指南役を務めており、ふたりの人間関係は、忠臣蔵に語られるほど悪くはなかったのです。

 

《 浅野家と吉良家の不思議な運命 》

赤穂浪士たちの残された家族で、とくに男性19人は遠島になりました。しかし、15歳未満は僧侶になる事を条件に遠島を免除されたのです。そして1709年には武家社会への復帰も許され、浅野大学は500石の旗本にまで復活しました。一方の吉良家は、当主の左兵衛が赤穂浪士を安易に屋敷に侵入させた事を理由に、領地を失います。つまり、警備が甘かったというワケですね。さらに、左兵衛本人が軽いケガだけだった事も、「逃げていたのではないか。武士にあるまじき姿」とされ、信濃の国に流されてしまいました。左兵衛はそこで病気になり亡くなります。22歳の若さでした。高家として栄えた吉良家は、ここで途絶えてしまったのです。

 

忠臣蔵の特徴は、物語の壮大さかもしれませんね。赤穂浪士をひとりずつ語るだけでも、47話が作れるのですから。最近はあまり見かけませんが、ひと昔前は12月になるとこの時代劇がテレビや映画に登場していました。そんな元禄赤穂事件の中から、わたしなりに選んだ面白話しでした。

2012年11月20日火曜日

パラレルワールド「大奥」の真実


徳川家康は、その生涯で正室ふたり、側室15人、子供は息子が11人と娘は5人おりました。この大家族のため、江戸城内に居住区を作ったのが大奥の起源です。つまり最初は、将軍の私邸が職場と同じ建物にあったという程度だったのです。1607年に江戸城本丸に作られた大奥の建物は拡大し続け、1845年には本丸御殿の建坪の約半分を占める規模にまでなりました。家康の時代には、彼以外でも多くの武士たちが出入りしていた大奥は、二代将軍秀忠が1618年に定めた「大奥法度」により、将軍だけしか出入りできない女性の世界になったのです。

 

江戸城内から大奥へ通じる廊下はひとつだけで、その出入り口には「御錠口(おじょうぐち)」と呼ばれる鉛の扉がありました。最も多い時期は、およそ1500人の女性たちの職場であった大奥。最高位の上臈御年寄(じょうろうおとしより)は年収100両、一番下の雑用係・御半下(おはした)は2両と、厳しい縦割り社会を形成していました。最高位の女性は公家出身者と決められていましたが、事実上の権力者である御年寄(おとしより)までは、誰でも出世が可能でした。その出世の条件は、「一引き、二運、三器量」と言われ、人並み以上の器量と強い運、そして何より強力な「引き」が昇進を約束したのです。引きとは上からの引き上げの事で、最高の引きは将軍の「お手付き」でした。そのため大奥では、「お庭の御目見え」というイベントが頻繁に開催されたそうです。御年寄が、職位四番目の御中臈(おちゅうろう)の中から、将軍の目に止まりそうな女性を選び、美しい着物姿で大奥の庭を歩いてもらうのです。運良く将軍のお手が付けば、本人は大出世、その女性を選んだ御年寄の力も増しました。

 

こうして拡大し続けた大奥の力は、やがて表舞台の政治にまで影響を及ぼすようになります。最も顕著に現れたのは、10代将軍家冶の時代の老中、田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信です。大奥の強力な支持を取りつけた意次に対し、8代将軍の孫で気位の高かった定信は、大奥の存在を軽く見ていたのです。御年寄で最高権力者といわれた大崎と対立し、大奥の予算を大幅削減。厳しい規制で取り締まろうとした矢先、老中を解任されてしまいます。この時代、大奥は幕府の一大勢力になっていたのです。

 

1590年の徳川家康の江戸城入城から、幕末の無血開城まで続いた大奥。女性だけのパラレルワールドには様々な人間模様が描かれ、5代将軍綱吉の暗殺現場にもなりました。またそこは、実力と運で頂点を目指す事ができる世界でもあったのです。

2012年11月15日木曜日

現代妖怪見聞録「くねくね」と「テケテケ」


まるで骨や関節がないように、全身を異常に揺らす妖怪「くねくね」が登場したのは、2000年ごろと言われています。「くねくねと動く白い変なモノを見た」とか、「とても人間とは思えない動き」と言う目撃談が、ネットに投稿されたのです。それからたちまち、現代妖怪の地位を確立した「くねくね」。出現するのは夏が多く、場所は水田や河原などの水辺に集中しているそうです。基本的にはヒトの形をしており、目撃者の中には「白い服を着た人が踊っている」と思った者もいましたが、その動きはとにかく普通ではないのです。しかも都市伝説では、じっと見つめていると正気を失ってしまうなんて怖いお話にまで発展しています。

 

その正体には、様々な説があります。真夏の出現が多いことから、蜃気楼や熱中症ではないかとか、自分の分身「ドッペルゲンガー」だと言う人もいます。あるいは、民族的な土着信仰の神さま説。諸説語られていても、正体は今だに不明のまま、その不思議な姿が語り継がれていく現代の妖怪なのです。

 

一方の「テケテケ」には、それが誕生した事件が語られています。北海道(または東北地方)の真冬のある日、ひとりの女性が電車に轢かれてしまいます。彼女はなんと、体の上と下が別れてしまいますが、すぐには亡くならず両肘をついて動いたと言うのです。この肘がアスファルトを叩く音から、「テケテケ」という名前になったそうです。つまりテケテケは上半身だけの妖怪で、とくに小学生の間で広く語り継がれ、やがて居場所が学校の理科室になりました。そして大きなハサミを持ち、口は耳元まで裂け、物凄いスピードで空間を飛ぶという恐ろしい妖怪へと進化していくのです。学校の幽霊なので校舎の外には出られないとか、一度スピードに乗ると曲がれないとか。テケテケに遭遇したときの対処法も生まれております。ただし、現在も進化中の妖怪なので安心はできないようですよ。

 

現代の民間伝承である都市伝説から生まれた妖怪たち。いにしえの時代のそれが今に残るように、未来の日本人に「くねくね」や「テケテケ」のお話を語り継ぎたいですね。

2012年10月23日火曜日

世界のヘビ神話


ヘビが苦手な方でも、ほんの少し、その「嫌い度」が低くなるかもしれない() そんな神秘的なお話を、今回は紹介します。キリスト教では悪魔とされるヘビでも、世界的にはその存在を聖なるモノとする神話が数多くあるのです。

 

まず古代エジプトの神話では、世界の初めにあった沼に4組のヘビとカエルの夫婦が住んでいて、彼らが太陽神ラーを生み出したとされます。不老不死のヘビ「アナンタ」が登場するのはインドの神話で、それは1000の頭を持ち無限を意味するそうです。古代マヤ文明の神話が語るのは、世界を創造した海ヘビの神グクマッツで、ケルト神話では、柳の木の下にあった紅色のヘビの卵から世界が誕生したと語られます。つまりこれらの神話の中で、ヘビは世界の創造に関わる大きな存在なのです。

 

また、脱皮を繰り返し成長するヘビは、古代の人々には永遠の象徴だったようです。老いて亡くなる事はなく生まれ変わる、あるいは別の命として再生すると信じられていたのです。ギリシャ神話に登場する医学の神アスクレピオスが持つ杖は、一匹のヘビが巻き付くデザインになっているそうですよ。また、細く長い姿から川を連想したのが古代の日本人で、ヤマタノオロチは氾濫する大河の象徴であり、日本の民俗学においてヘビは「水の神」なのです。

 

いにしえの時代、世界各地で誕生したヘビ神話。洋の東西や民族の違いはあれど、ヘビの姿や存在に深い神秘を感じたのは同じだったのでしょう。現在を語れば、見えない驚異ウィルスと戦う世界保健機関のマークに、アスクレピオスの杖が使われております。

2012年10月16日火曜日

ネットをさ迷う怖いモノ


一日に何十件と交わすメールやチャットの中に、体を持たない相手が存在したら? インターネットが日常生活に浸透した21世紀になり生まれた都市伝説が、ネット回線をさ迷う幽霊のお話です。よく語られるのが、「ネットのサダコ」という都市伝説。ジャパニーズホラーの傑作と言われる、あの映画の一場面のように、幽霊がパソコン画面から這い出て来るとか…。あるいは、真夜中にPCの電源を切ると、暗くなったモニター画面に自分の背後の幽霊が映るとか。

 

実際の体験談も語られています。例えば、メール交換で仲良くなった人に招待され自宅へ行ったら、その人物はかなり前に亡くなっていたそうです。これは、第三者が亡くなった人の名前と住所を使った可能性も考えられますね。不可解な体験談では、父親のお葬式に兄と弟が言い争いを始めたとき、ふたりの携帯に父親からの「空メール」が送信されたお話です。さらに怖いのは、亡くなった人がオンライン上の掲示板に書き込みをする事があるそうです。身体的には亡くなっても本人にその自覚がなく、魂が現世に残ったままネットやゲームで遊び続けているのです。

 

霊能力者によれば、こうした「幽霊の書き込み」は生きている人のそれとは文字の色が違うそうです。身体が亡くなっているので、当然キーボードは打てません。それでも書き込みたいとき、彼らは「念」で打つようです。念による書き込みは、文字が緑色に発光するのだとか。みなさん、今までに掲示板で緑色に光る文字を目撃した事はありますか?

 

確か今年、あの怖い映画がリメイクされましたね。「薄型テレビから這い出る貞子はあまり怖くない」なんて言う人もおりました。でも、甘く見るなかれ。21世紀のサダコは、スマホの画面からも出て来るかもしれませんよ。

2012年10月10日水曜日

見えないのに見ている?


「サブリミナル」という言葉を、聞いた事があるでしょうか。テレビ画面や映画館の画像などに、通常の視野では見えないほど短い映像を繰り返し流して、観る者の潜在意識に訴える手法です。これにより、観賞者は自覚がないうちにその映像が潜在意識に残ることを「サブリミナル効果」と言います。

 

その実証は19世紀から始まり、現在は広告研究、感情研究、社会心理学、臨床倫理学など広い分野で研究が進んでいるそうです。よく知られるのは、1957年、アメリカ・ニュージャージー州の映画館でおこなわれた実験です。ある映画のフィルムに、「コーラを飲もう」「ポップコーンを食べよう」というメッセージを二重映写で入れて上映したところ、コーラとポップコーンの売り上げが向上しました。なんだか、無意識に自分の精神がコントロールされるようで、怖い実験ですね。しかし、この結果はサブリミナルとは関係なかったようです。数年後、同じ映画館で「オレンジジュースを飲もう」を入れたのですが、売り上げに変化はありませんでした。要は、アメリカ人はコーラを飲み、ポップコーンを食べながら映画を観るのが好きという、単純な理由だったのです。

 

人間は、自分の目で捉えた情報を脳が認識するまでに0・1秒かかるそうです。それ以上短い情報は、認識できないと言う事です。サブリミナルは0・03秒なので、その効果は現在では疑問視される場合が多いようです。つまり、見て気付かないモノが潜在意識に残る事はないと考えられているのです。ただ、人間の視覚や聴覚、脳の認識力の可能性は完全に解明されておらず、いずれはサブリミナル効果が実証されるかもしれないのです。

 

サブリミナルは映像だけではなく、音でもその効果が期待されています。例えばお店で、軽犯罪防止のサブリミナルメッセージを含んだ音楽を流しているそうですよ。実際に効果が現れたかどうかは解りませんが、気付かないうちに意識操作されてしまうとすれば、その使い方には充分な配慮と慎重な考慮が必要でしょう。

2012年9月23日日曜日

タヌキとウサギのとても深いお話


日本の五大昔話のひとつに挙げられる「かちかち山」。日本の昔話は、実際に語り継がれる伝説や神々の時代の物語を色濃く反映しており、長い歳月、数多くの学者が研究を続けています。今回は、知れば知るほど惹き込まれる、「かちかち山」の深いお話を語ります。

 

物語の内容を詳しく記すと長くなるので省略しますが、簡単に紹介すればこんなお話です。正直者のおばあさんを亡き者にした悪いタヌキを、正義の味方の白ウサギが懲らしめる…日本人には広く知られた物語ですね。かちかち山の原型とされる最古の文献は、「ムジナの敵討」という物語です。ただ、このお話には後半のウサギの登場がありません。実は「ムジナの敵討」の後に発刊された「ウサギ大手柄」なる絵本が、かちかち山の後半になったという説があります。つまり、ふたつのお話を繋げたのです。江戸時代の頃までは、かなり不自然だったふたつのお話の集合物語を、現在のような形にしたのが巌谷小波(いわやさざなみ)でした。近代日本児童文学の創設者で、「日本のアンデルセン」と言われた文学者です。現在語られるかちかち山の物語は、巌谷がふたつのお話を整理し、彼自身の創作も加えた内容という説が、多くの学者に指示されています。

 

その一方で、さらに深い説を主張する人もいます。「かちかち山」は複数のお話の集合体ではなく、「古事記」に記された神話から誕生したという説です。例えばウサギがタヌキの萱(かや)に点ける「火」、タヌキが泥の舟で沈んでしまう「水」、またウサギがタヌキの背中に塗る辛子味噌は「神螺風(からし)」という文字で「風」を表し、古事記に神の象徴として記されているのです。これを「古神道」といいますが、かちかち山にそこまで深い意味を追及する人は少ないと思いますけど…はたして?

 

少し変わった解釈では、あの太宰治がオリジナルの「かちかち山」を書いた事はご存知でしょうか? 彼は児童文学としてはその内容があまりにも残酷だと考え、ウサギを16歳の女性に、タヌキを彼女に憧れる中年男性に置き換えて独自の物語にしています。その舞台となった富士河口湖町に建つ太宰の記念碑には、タヌキ、いえ、中年男性が泥の舟で沈むときに叫んだ言葉「惚れたが悪いか」が刻まれております。

 

日本の昔話に秘められた深いお話。さて、みなさんはどの説を指示しますか?

2012年9月8日土曜日

彷徨う霊魂のメッセージ


1968年、アメリカ・ボコタの警察署にひとりの男性が出頭し、2年前にこの街で発生した殺人事件の犯人は自分だと自白しました。出頭の理由を聞かれた男性は、こう答えます。「最近、被害者の女性が毎晩枕元に現れる。警察に行き罪を償ってもらわないと、わたしは天国へ行けないと囁かれ、恐怖に耐えられなくなった」。この女性はナタリアという名前で、事件発生当時白い服を着ていましたが、警察の報告書には「赤茶色」と記入されるほど刺されて亡くなったのです。実は男性が出頭した年の初めごろから、事件後無人となった家の二階の窓に立つ彼女の姿を、多くの町民が目撃していました。そして、男性が逮捕された後は、窓際に立つナタリアの姿は二度と目撃されませんでした。

 

亡くなった人の霊魂が、その意思を伝えようとした事例は日本にもあります。1977年の夏の夜、埼玉県内にある防火用貯水層の近くを車で通った男性が、そこに立つ黒いセーター姿の女性を見掛けます。真夏にセーターなので、彼はとても不思議に思ったそうですが、そのときはそのまま通過しました。まもなく、「貯水槽の近くに幽霊が出る」という話が広がり、異臭も漂い始めて、12月に変わり果てた女性が発見されました。魂が抜けて1年近く、暗い貯水槽の中に放置されていたその身は、黒いセーターを着ていたそうです。

 

アメリカと日本、どちらも実際に起きた出来事であり、紛れもない現実なのです。また、テレビやラジオからコンタクトする霊魂の存在を信じる人々もいます。電子機器を介した霊界との交信を「インストルメンタル・トランス・フェノメナ」と言い、トーマス・エジソンもその装置の研究に取り組んでいたそうですよ。

 

不思議な現実、霊魂のメッセージ。亡くなった人は何も言えない…なんて考えるのは、少し浅い思考なのかもしれませんね。

2012年8月18日土曜日

切り裂きジャックは女性だった?


19世紀末のロンドン。最も東の端に位置するイーストエンド地区は移民や亡命者が多く、貧しい暮らしを支えるために、街角に立つ女性が大勢いたそうです。そんな彼女たちが次々と無惨な姿で発見された「切り裂きジャック事件」は、ロンドン市民を恐怖のどん底に突き落としました。自らその名を名乗り、ロンドン警視庁に挑戦するような手紙を送ったこの事件は、現在の「劇場型犯罪」の元祖と言われています。



医学的な知識のある者、その職業の女性に怨みを持つ者など、様々な犯人像がプロファイリングされました。その中で一際興味深いのが、同じロンドンに在住し、事件をリアルタイムで体感したあのコナン・ドイルの推理です。彼は最初の被害者が出た直後から事件が知れ渡ったにも関わらず、女性たちがほとんど抵抗なく亡くなっている事実から、こんな説を提唱しました。「犯人は、彼女たちが安心するよう女性の服装をしていたのだ」。ロンドン警視庁は、この説に飛びつきました。実は最後の被害者が出たアパートの女性管理人が、彼女が亡くなった数時間後にその部屋を出る女性を目撃していたのです。正確には、被害者のショールを纏った人物で、管理人は被害者本人だと思ったそうです。



「犯人は女性ではないか」。この説を裏付けるように、5人(7人とも言われる)の被害者のうち3人が妊娠しており、子供を「処理する」ための手助けをする女性かもしれないと考えられたのです。「切り裂きジル」なんて呼び名も出ましたが、この説に反論する犯罪学者もいました。犯罪心理学の見地では、女性が同性を連続して何人も襲う事は考えられないと言うのです。当時でも女性の犯罪は多発していましたが、被害者はすべて男性でした。



犯人は、やはり「ジル」ではなく「ジャック」なのか? 飛び交う憶測と諸説に混乱するロンドン警視庁を悠然と眺め、1888年11月、最も酷い被害者と言われたメアリー・シェーン・ケリーを最後に、犯人は姿を消しました。以後、医学博士や元医学生、貴族など多くの容疑者が指摘されても、結局決め手がなかった「切り裂きジャック事件」は、都市伝説化して現在まで語り継がれているのです。

2012年8月10日金曜日

モナ・リザ・ミステリー


優しい眼差し、口元に湛えた僅かな微笑み、そして柔らかく重なる手。世界中の人々に知られる肖像画は、また、数多くの謎が見る人を惹き付けるのです。そこで今回は、「モナ・リザ」のふたつの謎に関して語ります。



モナ・リザは1503年から2年間、フィレンツェの教会でレオナルド・ダ・ヴンイチにより製作された事実以外、何の記録もありません。「記録魔」と言われるほど自身の活動に関して多くのメモを残したダ・ヴィンチが、モナ・リザの記録を何ひとつ残してない事から、様々な謎が生まれたのです。その最大の謎が、「モデルは誰か?」です。

それに関しての唯一の資料は、1550年に発刊された「芸術家列伝」という本の記述です。「フィレンツェの富豪フランチェスコ・デル・ジョコンドのために、彼の妻モンナ・リザ(リザ夫人)の肖像画を引き受けた」と書かれており、これが長い間、モデルは誰かの定説になっていました。しかし、ダ・ヴィンチが完成した肖像画をジョコンド氏に渡さず生涯手元に置いた事と、「芸術家列伝」自体がダ・ヴィンチの没後30年以上過ぎて書かれた事実で、近年、この定説の信憑性は低くなっています。



20世紀になって提唱されたのが、実はモデルは男性で、ダ・ヴィンチ本人ではないかという驚くべき新説です。1986年、アメリカの研究所でモナ・リザとダ・ヴィンチの自画像をコンピュータ画像で重ねたところ、顔の造形がほぼ一致したのです。2007年10月には、モナ・リザの眉も発見されており、さらにこの説を裏付けました。モナ・リザがダ・ヴィンチ独特の世界観で描かれた彼の自画像だとすると、もうひとつの謎「背景」の説明もできるのです。



ダ・ヴィンチが活躍した16世紀は、「肖像画の時代」とも言われます。数多くの画家が、競って高貴な身分の人々を描きましたが、その背景は必ず「人物が存在する空間」でした。つまり、モデルが立つ部屋や庭園などです。モナ・リザはどうでしょう。真ん中に位置する人物の右と左の風景がまったく異なり、地平線さえ一致していません。研究家によれば、向かって右側が現在の風景で、左側は水の浸食作用で出現する未来の大地だそうです。水の循環や浸食などの自然観、そこから発展させた「人の命の源」という世界観を、ダ・ヴィンチは自画像に描いたと言われるのです。



モデルは誰か? 肖像画らしくない背景の理由は何か? 様々な新説が提唱されても、それらは仮説の粋を超える事はありません。モナ・リザは永遠に謎の微笑みを湛え続け、それに惹かれる人々の解明も続くのです。

2012年8月2日木曜日

夢をありがとう!


彼はもしかして、夢の偉業を本当に成し遂げてくださるかもと、ある程度の期待がありました。しかし終わってみれば、わたしの周囲の人々は口を揃えて言いました。「やはり、無理だったね」。



オリンピック3回連続の金メダル。競泳にさほど詳しくないわたしでも、毎年、世界記録が更新される「物凄いスポーツ」なのは解ります。その世界で4年に一度、12年の歳月の中で頂点を極め続ける事が本当に可能なのか…期待の反面、懐疑的な気持ちもありました。

友人たちがやはりと思ったのは、ヒトがどうしても避けられない年齢です。とくに物凄いスポーツ競泳は、心の強さや高度な技に加え、力の強さが絶対的に必要でしょう。どれほど鍛えても、体力の衰えを止める事はできませんね。オリンピックの決勝レベルでは、それが歴然の差になるようです。



彼は当然、ベスト・コンディションで臨んだはずです。思い通りの泳ぎができても、なぜか先頭に出られない。それが、年齢の実感なのです。

常に自分を厳しい状況に置き、高い目標を持ち、それに向かい心身を極めていく…彼のそうした姿は、どれほどの人々に影響を与えたでしょうか。今回のオリンピックでは、他の日本人選手にさえ勝てませんでしたが、彼の気持ちの強さは心から尊敬します。



4年前、北京の競泳会場での雄姿は、日本人の記憶に鮮やかに刻まれました。彼の性格では、こんな言葉は聞きたくないとおっしゃるかもしれませんが、わたしの素直な気持ちとして贈ります。

「ご苦労さまでした」そして、「夢をありがとう!」。

2012年7月14日土曜日

和製恐怖系都市伝説「すき間の人」





世界の各地で語られる都市伝説は、ワールドワイドなお話もあれば、その国独特の文化で育まれた物語もあります。とくに後者は、その国以外ではほとんど普及せず、例えば欧米でよく語られる「ママのひと言」という都市伝説は、日本人にはあまり理解できないでしょう。イソップ童話が原型のかなり怖いお話ですが、逆に、海を渡らない日本独特の恐怖系都市伝説もあるのです。それは、こんなお話です。



Tさんは、都会でひとり暮らしをする若い女性です。彼女の自宅は女性専用のマンションでしたが、ある日を境に、不思議な恐怖を感じるようになります。じっと自分を見つめる視線や、息を潜めた「誰か」が部屋にいる気配を感じたのです。壁に穴があいているワケでもなく、しかも隣り近所はすべて女性なので、妙な事をする人もいないはず。カギをかけ、窓のカーテンを閉めても何者かの視線や気配は消えませんでした。それが数日間続き、ついに耐えられなくなったTさんは、友達を何人か呼び、みんなで部屋を調べました。すると、なんとも恐るべき原因が分かります。洋服タンスと壁の僅か数センチのすき間に、髪の長い女性が立っていたのです。しかも彼女の体半分は、壁の中に「溶け込んでいた」と言います。無表情のまま、鋭い上目使いでTさんたちを睨むその恐怖…。もちろんTさんは、翌日別のマンションに移りました。



Tさんのように、怖くて引っ越したお話の他に、この「すき間に立つ女性」を好きになってしまう男性のバージョンもあります。会社に出勤しないため、心配した職場仲間が彼のアパートを訪れます。そこにいた男性に、「何をしている」と尋ねると、彼は「彼女が行くなと言うから」と答えます。もちろん、部屋には男性以外誰もいません。職場仲間は、彼が指さした台所の冷蔵庫のすき間に立つ赤いドレスの女性を目撃しました。他にも、窓と鉄格子の僅か5センチのすき間に張り付き、部屋の中を覗く男性のお話もあります。まるで、スルメのように平たくなっていたようです。



有り得ない場所に存在する者たちが幽霊なのは、明白ですね。タンスとか冷蔵庫のすき間と言う、僅かな暗がりの設定がいかにも日本的です。それもそのはずで、この都市伝説の元は、江戸時代の「耳ぶくろ」という随筆集に記されたお話なのです。「房斎(ぼうさい)新宅怪談の事」なるタイトルで、房斎という名の人物が新しい自宅で体験した話を記しています。二階の部屋にあるタンスの引き出しがどうにも開かず、それでも力ずくでようやく開いた瞬間、引き出しの中から女性の幽霊が飛び出したのです。すき間でひたすら立つだけの現在のお話とは多少異なりますが、「すき間の人」は、日本の古い怪談が発展したお国柄豊かな都市伝説なのです。

2012年7月4日水曜日

どこにあるの?「徳川埋蔵金」


どれほど掘っても、お宝は影も形も見えず…。150年以上の歳月をかけ、数多くの人々が挑戦し続けた「お宝探し」が、現在もなお伝説でしかないその理由は、ふたつしかありません。すでに消えたか、探す場所がまったく違うかです。日本史の謎として幾つか挙げられる中のひとつ、「徳川埋蔵金」。一時期、某テレビ局の企画で盛り上がったこのお話を、今、改めて語ります。



1868年4月11日。江戸城の無血開城でその金蔵へ入った官軍は、我が目を疑い呆然と立ちすくみました。そこは空っぽ。小判1枚残されていませんでした。およそ4年前から、幕府の終焉を察知していた大老・井伊の命により、勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)が幕府御用金の持ち出し作戦を極秘に行っていたのです。その額、360万両。さらに、作戦が慣行されていた時期、勢多郡赤城村(現在の群馬県渋川市)で多くの農民が、利根川の岸に着岸する船から武士たちが大きな荷物を赤城山麓へと運んで行く光景を目撃します。ここに、徳川埋蔵金伝説が誕生しました。360万両というお金は、当時のレートで円に換算すると約100億円だそうですよ。ただし当時の幕府に、これほどの財力は残っていなかったと言う研究家もいます。実際、勘定奉行の小栗が、フランスに600万ドルの借金を申し入れた記録があるからです。ただ、終焉目前だったとはいえ、徳川家420万石。江戸城の金蔵に小判1枚もなかったのは、どう考えても不自然ですね。

ちなみに、官軍が回収した幕府のお金はほかにもあります。大阪城の御用金、金座や銀座の貨幣、南北の町奉行が保有していたお金などで、その合計は90万両でしたが、70万両の行方が不明だったそうです。



さて、伝説の地となった赤城山麓ではお宝探しが始まります。30年以上掘り続けた人、親子2代で60年もの歳月をかけた一家、また戦時中は、軍が国家事業として発掘調査を行いました。赤城山麓は穴だらけで、地下はアリの巣のよう、現在もここに住み付き探し続ける「埋蔵金のプロ」がいます。それでも発見されない現実に、「場所が違うのでは?」と考える人は当然現れるでしょう。

埋蔵金研究の第一人者と言われる畠山清行(はたけやませいこう)をリーダーとする調査団が、赤城山麓より北の旧三国街道(国道17号)や旧沼田街道(国道120号)沿いの村で有力情報を入手し、ここを発掘し始めます。結果、総延長が約90メートルと思われる謎の横穴を発見しました。しかし、調査はここで中止。横穴が国道17号線の真下にあるという理由で、当時の建設省が埋め戻してしまったのです。横穴の中に何があったのか、あるいはなかったのかは、永遠の謎となってしまったワケですね。



この国道17号線沿いは、現在、新たな発掘スポットとして注目されているそうです。ただ徳川埋蔵金伝説は、その始まりから綿密に分析すれば、100億円のお金がどうなったかそれなりの仮説は立てられます。隠した場所を知る限られた一部の人々が、倒幕から明治新政府誕生までの間に回収したのです。つまり、元の持ち主に戻ったと考える、極めて単純な仮説です。360万両という小判の物量は、50両一束の包みが7万個以上で、もしそれが現在も残っているとすれば、その場所は土の中ではなく建物の中かもしれません。

2012年6月3日日曜日

時間の超常現象「タイム・ループとタイム・スリップ」


もし、時計の針が逆に回せたら、自分の過去の「あのとき」に戻って、もう一度やり直せたのに…と思う人は少なくないでしょう。過去や未来を自由に選んで行ける「タイム・トラベル」は、現在の世に未来からの旅行者が存在しない事から、永遠に不可能と断言する学者もおります。しかし、偶然に発生する時間の不思議な超常現象は、物理学でもそれなりに研究が進んでいるようです。それが、「タイム・ループ」と「タイム・スリップ」です。



ひとりの男性が目を覚まします。火曜日の朝、6時35分。彼はいつも通りトーストとスクランブルエッグ、コーヒーの朝食をとり出勤。アパートを出たところで自転車とぶつかりそうになり、それを避けた弾みで道路に飛び出し、目前に大型トラックが…そこで、男性は気を失います。意識が戻ると、また火曜日の朝6時35分。同じメニューの朝食の後、アパートを出てまた自転車に…。彼はこれを5日間経験したと言います。この現象がタイム・ループです。今世紀初めにアメリカで発生した現象ですが、体験者の名前は公表されませんでした。



タイム・スリップは、1789年のベルサイユ宮殿に迷い込んだふたりのイギリス人女性や、さらに古い500年前のパリを目撃したアメリカ人夫妻がいます。体験者がひとりならば、「気のせい」とか「何かの見間違い」と思われても、ふたりが同時に同じ風景を目撃したのですから、体験は本物だったはずです。



さて、ここから語りが少々難しく、またスケールも宇宙規模になります。思考をできるだけ柔軟にして読んでくださいね。

現代の物理学でも、時間の正体はよく解っていないようです。アメリカの物理学者ローレンス・シュルマン博士によると、「宇宙には逆時間領域がある」そうですよ。つまり、わたしたちが暮らす空間の中では、水が入ったグラスを床に落とせばグラスは割れて水が床に広がりますね。逆時間領域では、その光景がビデオの逆戻しのように見えるワケです。しかも、その空間にもし人間が存在すれば、若返っていくそうですよ。



わたしたちを囲む空間、さらにそれを囲む宇宙の誕生は、現在、ビッグ・バン理論とインフレーション理論を合わせたものとされています。理論の説明は大変難しいので省くとして、現在考えられている宇宙全体のカタチは、例えるならば大木です。太い幹から、何十本もの枝を張った姿に似ているのだとか。枝のそれぞれが独立した宇宙で、その中に「逆時間領域」があるとしたら…そして、枝の重なる部分があるとしたら…。そこで、時間の超常現象が発生するのです。



同じ時間帯の中を、ひたすら回り続けるタイム・ループ。突然、過去の世界へ行ってしまうタイム・スリップ。不思議な時間の超常現象は、何の前触れもなく突然、わたしたちの日常に発生するかもしれませんよ。

2012年5月22日火曜日

新説「本能寺の変」

日本人の誰もが知る、この大事件。1582年6月2日、京都の本能寺で織田信長の命を奪った者は、誰でしょうか。明智光秀? もしかしたら彼は、巨大な陰謀の「道具」でしかなかったかもしれませんよ。近年、数多くの文献や資料の様々な見方の検証が進み、定説とされていた史実とはまったく異なる新説が誕生しつつあります。それが認められるか否かは別として、この驚くべき新説を紹介しましょう。

まず、明智光秀の挙兵の動機とされた、主君信長への感情です。元々、火のような激しい性格の信長は、光秀に理不尽な行為を重ね、やがて光秀に憎悪の感情が生まれたといいます。信長の理不尽な行為は、「川角太閤記」や「祖父物語」に記されています。ただ、これらの文献は、本能寺の変より100年以上も後の江戸時代に書かれた物です。信長直筆と思われる署名が記された当時の書簡には、光秀の能力を誉める言葉が残されているのです。

もうひとつの動機として、豊臣秀吉への強いライバル心があったとされています。同じような功績を挙げも、主君の評価は自分より秀吉の方が高く、それが「負の感情」を生む原因とされたのです。しかし、当時の資料を詳しく分析すると、光秀は秀吉より早く居城を構え、地位も高かったのです。信長に仕えたのは秀吉の方が早かったのですが、光秀はいわば先輩を追い抜いて出世していたのです。もしライバル心を抱くとすれば、それは豊臣秀吉だったかもしれません。

さて、光秀の挙兵の動機が怨みではなかったとすれば、本能寺の変はなぜ起きたのでしょうか。そこで、「朝廷陰謀説」が浮上します。信長は安土城の中に寺を建て、そのご神体を自分とし、生きる神仏として自分の誕生日を聖日にするよう命じました。さらに、安土城に招いた天皇を、「天主」と名付けた天守閣から見下ろすという、実に彼らしい態度で出迎えます。つまり、「起源は神である」と信じられてきた天皇の存在に、真っ向から挑戦したのです。こうした人物を生かしておけばどうなるか…朝廷は絶対的な排除を決意せざるを得なかったでしょう。

陰謀の画策の責任者は、上流公家の近衛前久という人物です。彼が明智光秀をどのように説得したかは、現在も解明されていません。極めて秘密裡に行われた画策であり、証拠となる手紙や書簡が残されていないからです。ただ、とても真面目で誠実な性格だったと言われる光秀に、「世のため、民のため」と言い聞かせて挙兵させたのかもしれません。朝廷陰謀説の裏付けは、本能寺の変が起きた後の近衛前久の行動です。わずか5日後の6月7日、親王の居所で宴会を開いていた記録が残っています。間違いなく、陰謀成功の祝宴でしょう。また、光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れたと知るやいなや、京を逃げ出し、仏門に入ってしまいます。

さて、この大事件で最も利益を得た人物が豊臣秀吉です。彼は近衛前久に協力していた人物を捕え、朝廷陰謀の全容を知ります。「これは使える」と考えたのでしょう。いわゆる調書として「惟任(これとう)退治記」という文献を作成しました。本能寺の変は、信長を怨んだ光秀が単独で起こした謀反であり、それを自分が退治したという、いわば合戦物語です。秀吉は、この文献を親王立ち会いの元で読み聞かせ、この内容を既成事実として公家に認めさせました。
こうして、現在まで至る「本能寺の変の定説」が確定したのです。

今回紹介した朝廷陰謀説は、まだ「仮説」の域を脱しておりません。何しろ定説は、わたしたち日本人の心に深く浸透していますからね。それでも、定説が真実であるとは限らないのです。

歴史は過去の出来事です。しかしその真実は、これからも追及されていくのです。