2012年5月22日火曜日

新説「本能寺の変」

日本人の誰もが知る、この大事件。1582年6月2日、京都の本能寺で織田信長の命を奪った者は、誰でしょうか。明智光秀? もしかしたら彼は、巨大な陰謀の「道具」でしかなかったかもしれませんよ。近年、数多くの文献や資料の様々な見方の検証が進み、定説とされていた史実とはまったく異なる新説が誕生しつつあります。それが認められるか否かは別として、この驚くべき新説を紹介しましょう。

まず、明智光秀の挙兵の動機とされた、主君信長への感情です。元々、火のような激しい性格の信長は、光秀に理不尽な行為を重ね、やがて光秀に憎悪の感情が生まれたといいます。信長の理不尽な行為は、「川角太閤記」や「祖父物語」に記されています。ただ、これらの文献は、本能寺の変より100年以上も後の江戸時代に書かれた物です。信長直筆と思われる署名が記された当時の書簡には、光秀の能力を誉める言葉が残されているのです。

もうひとつの動機として、豊臣秀吉への強いライバル心があったとされています。同じような功績を挙げも、主君の評価は自分より秀吉の方が高く、それが「負の感情」を生む原因とされたのです。しかし、当時の資料を詳しく分析すると、光秀は秀吉より早く居城を構え、地位も高かったのです。信長に仕えたのは秀吉の方が早かったのですが、光秀はいわば先輩を追い抜いて出世していたのです。もしライバル心を抱くとすれば、それは豊臣秀吉だったかもしれません。

さて、光秀の挙兵の動機が怨みではなかったとすれば、本能寺の変はなぜ起きたのでしょうか。そこで、「朝廷陰謀説」が浮上します。信長は安土城の中に寺を建て、そのご神体を自分とし、生きる神仏として自分の誕生日を聖日にするよう命じました。さらに、安土城に招いた天皇を、「天主」と名付けた天守閣から見下ろすという、実に彼らしい態度で出迎えます。つまり、「起源は神である」と信じられてきた天皇の存在に、真っ向から挑戦したのです。こうした人物を生かしておけばどうなるか…朝廷は絶対的な排除を決意せざるを得なかったでしょう。

陰謀の画策の責任者は、上流公家の近衛前久という人物です。彼が明智光秀をどのように説得したかは、現在も解明されていません。極めて秘密裡に行われた画策であり、証拠となる手紙や書簡が残されていないからです。ただ、とても真面目で誠実な性格だったと言われる光秀に、「世のため、民のため」と言い聞かせて挙兵させたのかもしれません。朝廷陰謀説の裏付けは、本能寺の変が起きた後の近衛前久の行動です。わずか5日後の6月7日、親王の居所で宴会を開いていた記録が残っています。間違いなく、陰謀成功の祝宴でしょう。また、光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れたと知るやいなや、京を逃げ出し、仏門に入ってしまいます。

さて、この大事件で最も利益を得た人物が豊臣秀吉です。彼は近衛前久に協力していた人物を捕え、朝廷陰謀の全容を知ります。「これは使える」と考えたのでしょう。いわゆる調書として「惟任(これとう)退治記」という文献を作成しました。本能寺の変は、信長を怨んだ光秀が単独で起こした謀反であり、それを自分が退治したという、いわば合戦物語です。秀吉は、この文献を親王立ち会いの元で読み聞かせ、この内容を既成事実として公家に認めさせました。
こうして、現在まで至る「本能寺の変の定説」が確定したのです。

今回紹介した朝廷陰謀説は、まだ「仮説」の域を脱しておりません。何しろ定説は、わたしたち日本人の心に深く浸透していますからね。それでも、定説が真実であるとは限らないのです。

歴史は過去の出来事です。しかしその真実は、これからも追及されていくのです。