徳川家康は、その生涯で正室ふたり、側室15人、子供は息子が11人と娘は5人おりました。この大家族のため、江戸城内に居住区を作ったのが大奥の起源です。つまり最初は、将軍の私邸が職場と同じ建物にあったという程度だったのです。1607年に江戸城本丸に作られた大奥の建物は拡大し続け、1845年には本丸御殿の建坪の約半分を占める規模にまでなりました。家康の時代には、彼以外でも多くの武士たちが出入りしていた大奥は、二代将軍秀忠が1618年に定めた「大奥法度」により、将軍だけしか出入りできない女性の世界になったのです。
江戸城内から大奥へ通じる廊下はひとつだけで、その出入り口には「御錠口(おじょうぐち)」と呼ばれる鉛の扉がありました。最も多い時期は、およそ1500人の女性たちの職場であった大奥。最高位の上臈御年寄(じょうろうおとしより)は年収100両、一番下の雑用係・御半下(おはした)は2両と、厳しい縦割り社会を形成していました。最高位の女性は公家出身者と決められていましたが、事実上の権力者である御年寄(おとしより)までは、誰でも出世が可能でした。その出世の条件は、「一引き、二運、三器量」と言われ、人並み以上の器量と強い運、そして何より強力な「引き」が昇進を約束したのです。引きとは上からの引き上げの事で、最高の引きは将軍の「お手付き」でした。そのため大奥では、「お庭の御目見え」というイベントが頻繁に開催されたそうです。御年寄が、職位四番目の御中臈(おちゅうろう)の中から、将軍の目に止まりそうな女性を選び、美しい着物姿で大奥の庭を歩いてもらうのです。運良く将軍のお手が付けば、本人は大出世、その女性を選んだ御年寄の力も増しました。
こうして拡大し続けた大奥の力は、やがて表舞台の政治にまで影響を及ぼすようになります。最も顕著に現れたのは、10代将軍家冶の時代の老中、田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信です。大奥の強力な支持を取りつけた意次に対し、8代将軍の孫で気位の高かった定信は、大奥の存在を軽く見ていたのです。御年寄で最高権力者といわれた大崎と対立し、大奥の予算を大幅削減。厳しい規制で取り締まろうとした矢先、老中を解任されてしまいます。この時代、大奥は幕府の一大勢力になっていたのです。
1590年の徳川家康の江戸城入城から、幕末の無血開城まで続いた大奥。女性だけのパラレルワールドには様々な人間模様が描かれ、5代将軍綱吉の暗殺現場にもなりました。またそこは、実力と運で頂点を目指す事ができる世界でもあったのです。