2012年11月20日火曜日

パラレルワールド「大奥」の真実


徳川家康は、その生涯で正室ふたり、側室15人、子供は息子が11人と娘は5人おりました。この大家族のため、江戸城内に居住区を作ったのが大奥の起源です。つまり最初は、将軍の私邸が職場と同じ建物にあったという程度だったのです。1607年に江戸城本丸に作られた大奥の建物は拡大し続け、1845年には本丸御殿の建坪の約半分を占める規模にまでなりました。家康の時代には、彼以外でも多くの武士たちが出入りしていた大奥は、二代将軍秀忠が1618年に定めた「大奥法度」により、将軍だけしか出入りできない女性の世界になったのです。

 

江戸城内から大奥へ通じる廊下はひとつだけで、その出入り口には「御錠口(おじょうぐち)」と呼ばれる鉛の扉がありました。最も多い時期は、およそ1500人の女性たちの職場であった大奥。最高位の上臈御年寄(じょうろうおとしより)は年収100両、一番下の雑用係・御半下(おはした)は2両と、厳しい縦割り社会を形成していました。最高位の女性は公家出身者と決められていましたが、事実上の権力者である御年寄(おとしより)までは、誰でも出世が可能でした。その出世の条件は、「一引き、二運、三器量」と言われ、人並み以上の器量と強い運、そして何より強力な「引き」が昇進を約束したのです。引きとは上からの引き上げの事で、最高の引きは将軍の「お手付き」でした。そのため大奥では、「お庭の御目見え」というイベントが頻繁に開催されたそうです。御年寄が、職位四番目の御中臈(おちゅうろう)の中から、将軍の目に止まりそうな女性を選び、美しい着物姿で大奥の庭を歩いてもらうのです。運良く将軍のお手が付けば、本人は大出世、その女性を選んだ御年寄の力も増しました。

 

こうして拡大し続けた大奥の力は、やがて表舞台の政治にまで影響を及ぼすようになります。最も顕著に現れたのは、10代将軍家冶の時代の老中、田沼意次(たぬまおきつぐ)と松平定信です。大奥の強力な支持を取りつけた意次に対し、8代将軍の孫で気位の高かった定信は、大奥の存在を軽く見ていたのです。御年寄で最高権力者といわれた大崎と対立し、大奥の予算を大幅削減。厳しい規制で取り締まろうとした矢先、老中を解任されてしまいます。この時代、大奥は幕府の一大勢力になっていたのです。

 

1590年の徳川家康の江戸城入城から、幕末の無血開城まで続いた大奥。女性だけのパラレルワールドには様々な人間模様が描かれ、5代将軍綱吉の暗殺現場にもなりました。またそこは、実力と運で頂点を目指す事ができる世界でもあったのです。

2012年11月15日木曜日

現代妖怪見聞録「くねくね」と「テケテケ」


まるで骨や関節がないように、全身を異常に揺らす妖怪「くねくね」が登場したのは、2000年ごろと言われています。「くねくねと動く白い変なモノを見た」とか、「とても人間とは思えない動き」と言う目撃談が、ネットに投稿されたのです。それからたちまち、現代妖怪の地位を確立した「くねくね」。出現するのは夏が多く、場所は水田や河原などの水辺に集中しているそうです。基本的にはヒトの形をしており、目撃者の中には「白い服を着た人が踊っている」と思った者もいましたが、その動きはとにかく普通ではないのです。しかも都市伝説では、じっと見つめていると正気を失ってしまうなんて怖いお話にまで発展しています。

 

その正体には、様々な説があります。真夏の出現が多いことから、蜃気楼や熱中症ではないかとか、自分の分身「ドッペルゲンガー」だと言う人もいます。あるいは、民族的な土着信仰の神さま説。諸説語られていても、正体は今だに不明のまま、その不思議な姿が語り継がれていく現代の妖怪なのです。

 

一方の「テケテケ」には、それが誕生した事件が語られています。北海道(または東北地方)の真冬のある日、ひとりの女性が電車に轢かれてしまいます。彼女はなんと、体の上と下が別れてしまいますが、すぐには亡くならず両肘をついて動いたと言うのです。この肘がアスファルトを叩く音から、「テケテケ」という名前になったそうです。つまりテケテケは上半身だけの妖怪で、とくに小学生の間で広く語り継がれ、やがて居場所が学校の理科室になりました。そして大きなハサミを持ち、口は耳元まで裂け、物凄いスピードで空間を飛ぶという恐ろしい妖怪へと進化していくのです。学校の幽霊なので校舎の外には出られないとか、一度スピードに乗ると曲がれないとか。テケテケに遭遇したときの対処法も生まれております。ただし、現在も進化中の妖怪なので安心はできないようですよ。

 

現代の民間伝承である都市伝説から生まれた妖怪たち。いにしえの時代のそれが今に残るように、未来の日本人に「くねくね」や「テケテケ」のお話を語り継ぎたいですね。