池田屋事件、そして新撰組。日本人でこのふたつの言葉を知らない人は、そう多くないでしょう。300年近く続いた安泰の世の終焉が迫る時代、様々な政治勢力が激しく動く京都で発生した、日本の歴史に刻まれる大事件とその主人公たちを今回は語ります。小説・映画・テレビなどのエンターテイメントとは違う、池田屋事件の真相と実態です。
まず、当時の京都の政治情勢を知るうえで外せないのが、1863年8月18日に起きた「文久の政変」です。これは会津藩と薩摩藩が連合し、朝廷から長州藩を一掃したクーデターで、その後、長州藩を中心とした尊王派は、いわば「テロリスト」の烙印を押されてしまったワケです。そして、彼らは市内各所に潜伏し、復権の機会を模索していました。
翌年の1864年6月5日。京都市内の治安維持にあたっていた新撰組は、長州藩・尊王派のリーダー格の人物の潜伏先を突き止めました。早朝に踏み込んだとき、その人物は取り逃がしましたが彼を匿っていた家の主を逮捕。薪や炭を商う商人に身を隠した長州藩・浪士、古高俊太郎(こだかしゅんたろう)です。
新撰組・局長の近藤勇は、想像を絶する「厳しい取調べ」の末、長州藩が画策している恐るべき計画を知りました。
それは、「6月20日前後の風の強い日、御所に火を放ち天皇を長州へ連れ去る」というものでした。さらに、「5日の夜、藩の主立った者たちが市内で会合を開く」というのです。まさに、当日の夜です。古高が会合の場所を知らなかったため、近藤は残された時間で京都市内各所を捜索しなければならない、という焦りに駆られました。
近藤は会津藩に応援を要請。しかし、集合の場所と時間に応援隊が現れなかったことで、新撰組だけの捜索に踏み切りました。34人の新撰組隊士を近藤隊と土方隊のふたつに分け、鴨川の東側と西側の旅館や飲食店を一軒ずつ調べて行ったのです。夜10時少し過ぎ、沖田総司や藤堂平助など新撰組の剣客を揃えた近藤隊は、三条小橋の池田屋・正面口に入ります。
「宿改めである」という近藤の言葉に、慌てて二階へ駆け上がる主人を追いかけ踏み込んだその部屋には、30名の長州藩浪士たち。映画やテレビでは、ここからが「見せ場」ですね。時代劇の醍醐味の場面が展開するワケですが、実際の出来事は少々違っていたようです。
鬼の形相の近藤が真っ先に踏み込んだとき、30人の浪士のうち約半分は窓から外へ飛び出し、下の地面へ飛び降りたり屋根を伝ったりして逃走しました。
池田屋で亡くなった長州藩の浪士は、室内では勇猛果敢に近藤に斬りかかった宮部縣蔵(みやべていぞう)ほか4名。裏口から逃げようとした3名の計7人だけでした。映画などに描かれる派手な立ち回りは、ほとんどなかった…というのが、現在の歴史家たちの見解です。そして、市内に散った残りの浪士たちを取り押さえたのは、新撰組ではなく会津藩の応援隊と町奉行でした。
さて、長州藩の浪士たちが池田屋に集まっていた本当の目的は、「恐るべき計画」の打ち合わせではなかった、という説が現在では有力です。文久の政変により朝廷から追われた長州藩が、復権を願って動いていたのは事実です。しかしそれは、「御所に火を放つ」ような過激な行動ではなく、朝廷工作を中心とした穏健なものであり、そのパイプ役が新撰組に逮捕された古高俊太郎だったのです。ただ藩内には、過激な意見も含め様々な思惑があり、それらを調整するための意見交換会が池田屋の会合だったようです。
興味深いのは、この会合に遅れたことで命拾いしたとされる桂小五郎の動きです。彼は長州藩京都留守居役という、幕府や諸藩との交流が仕事のいわば外交官でした。会合の当日、桂はまだ陽も沈まない時刻に池田屋に来ました。当然、浪士のほとんどは集まっていません。「外で時間を潰して来る」と言い近所の友人宅へ行き、そこで話し込み会合のことを忘れてしまったというのです。
ただ実際は、仕事の立場上で会合の危険性を察知していた桂が、面目で顔を見せただけで池田屋に戻る気はなかった、という説もあります。
この池田屋事件で、新撰組の名前はたちまち幕末の世に知れ渡っていきました。以後、200人以上を擁する巨大組織となり、1867年には幕臣に取りたてられ、ある歴史家は日本の歴史上もっとも恐れられた警察部隊になったと言います。しかし一方で、結成当時の純粋な理念は消え、単なる人斬り集団になってしまったという見方もあるようです。
実は歴史家の中には、池田屋事件は幕府の陰謀だったという説を主張する人もいます。長州藩の「御所に火を放つ」という計画の物的証拠が何も残ってない事と、浪士たちが池田屋に集まった真の目的が解明されなかった事などが、その主張の根拠です。
もしかしたら、新撰組も長州藩も巨大な「影の力」に操られていたかもしれません。