2013年11月13日水曜日

軍事ファシズムに挑んだ警察「ゴーストップ事件」


単なる信号無視が、「軍の威信」と「警察の正義」の正面衝突にまで発展した事件。勢いを増す軍事ファシズムに抵抗した浪花警察の勇気が語り継がれ、そして事件以後、抑えがなくなった軍部の暴走により、日本が極めて危険な道を突き進むキッカケともなった出来事です。

 
1933年(昭和8年)6月17日、午前11時30分ごろ。北大阪のある交差点で、陸軍第4師団所属の中村一等兵が、赤信号を無視して道路を渡ろうとしました。交通整理をしていた曾根崎署の戸田巡査は、それを注意します。しかし中村一等兵は、戸田巡査の再三の注意を信号同様に無視。戸田巡査は中村一等兵を派出所に連行、ふたりの口論はエスカレートし、ついには大ゲンカになりました。当時、現場の交差点には最新式の信号機が設置されており、「進む」と「止まる」の文字を表示していたことから、これが「ゴー・ストップ事件」と呼ばれるようになります。

 
この事件が起きた同じ年の3月、日本は国際連盟から脱退。2年前の満州事変、そして前年昭和7年の5・15事件などで、陸軍の勢力が一段と強くなっていました。派出所に連行されたときの中村一等兵の言葉、「我々軍人の取り締まりは憲兵がする。警察の言うことなど聞けるものか」は、まさにその現実でした。陸軍は自らを「皇軍」と呼び、兵士たちは自分が特別な存在だと思うようになっていたのです。事件から5日後の6月22日。中村一等兵が所属する陸軍第4師団の井関参謀長は会見を開き、事件は警察の不祥事であり、皇軍の威信に関する重大な問題であるとして、警察側に謝罪を求めました。これに対し、大阪府警察部長の粟屋仙吉(あわやせんきち)は、「兵士であろうと私人で行動する場合は、一市民としてのルールを守るべきである」と述べ、戸田巡査の行為は妥当だったと反論。警察が非を認めて謝れば、事件を円満に解決しようと考えていた井関参謀長は激怒しますが、大阪府警は交通違反の処理は妥当と一歩も引かず、両者は全面対決となったのです。

 
7月になると、井関参謀長は陸軍大臣へ、大阪府は内務大臣へそれぞれ事件を正式に報告し、ついには陸軍と内務省の対立にまで発展しました。大阪地方裁判所検事局の調停もうまくいかず、いつまで続くのかと世間がウワサし始めたころ、事は一気に解決へと向かいます。この騒ぎが昭和天皇のお耳にまで届いており、「大阪の事件は、どうなっているのか」と陸軍大臣にお尋ねになった事がキッカケでした。当時の世相として、昭和天皇のお言葉があったとなれば、いつまでもモメているのは許されません。両者は和解しましたが、その内容は「警察側が師団に対して理解を示し、儀礼を尽くす」という、円満解決にはほど遠いモノでした。警察が大幅譲歩したのは、「軍の威力にこれ以上対抗しても望みはない」の判断だったといわれます。

 
以後、「皇軍」を自称する者たちの暴走をけん制する勢力はなくなり、世界が赤信号を点灯させる危険な道を日本は突き進みます。それでもこの「ゴー・ストップ事件」は、台頭する軍事ファシズムに浪花警察が懸命の抵抗を試みた出来事として、歴史に刻まれるのです。