2012年12月23日日曜日

語り継ぎたい歴史「ウォーターゲート事件」


アメリカ史上で唯一、任期途中で辞職した大統領リチャード・ニクソン。彼の名前を歴史に刻んだウォーターゲート事件は、決して公にしてはいけない国家の闇を、アメリカ市民が垣間見た出来事でした。共和党の大統領候補者が、決選の日まで僅か5か月という時期に、なぜ、民主党本部を盗聴しようなどと考えたのか? 今回はその全容と、さらに深い闇の存在を語ります。

 

事件は1972年6月17日午前2時少し過ぎ、ワシントンDCのウォーターゲートビル6階にある民主党本部で、5人の男性が不法侵入により逮捕された事から始まります。当初は単なる窃盗犯と思われた5人の中に、ニクソン大統領の再選をめざす「大統領再選委員会」の関係者が含まれていたのです。これを19日朝、ワシントン・ポスト紙が一面トップで報じました。ホワイトハウスは事件の関与を完全否定するものの、ポスト紙はその後も、大統領を含む政府高官の関与、証拠隠滅、捜査妨害などを示唆する記事を次々と掲載。民主党本部に侵入した5人と、大統領再選委員会のふたりを合わせた7人が、盗聴など8つの罪で告発されました。彼らは、「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれたそうですよ。連邦高裁は、盗聴テープの提出をホワイトハウスに要求。しかしニクソン大統領はそれを拒否し、さらに大統領権限により、特別検察官の解雇やウォーターゲート特別連邦検察局の廃止などを行うと公表しました。もみ消し工作としか受け取れないこの行動が、ニクソン大統領を孤立無援の状態に追い込んだのです。1974年8月8日、彼はテレビカメラに向かい、大統領職の辞任を発表しました。

 

リチャード・ニクソン氏は、大統領になる前までの政治活動の中で何度も敗戦を経験し、選挙に対する不安と政界への猜疑心が非常に強かったと言います。そのため、ニクソン陣営の諜報活動は選挙対策だけではなく、ほぼ日常的におこなわれていたようです。民主党本部の盗聴は、単にその「日常活動」のひとつだったのです。選挙資金で私立探偵まで雇っていたそうです。「相手が何を考え、どう動くのか知りたい」。これが、ウォーターゲート事件の表向きの動機と言えるでしょう。実はこの事件には、さらに深い闇の存在を示唆する事実があります。歴史研究家たちが、「静かなるクーデター」と呼ぶ軍部の動きです。

 

ニクソン氏は大統領就任後、ベトナム戦争の休戦を推進したり、ソ連や中国を訪問して冷戦時代の緊張の緩和を推し進めました。こうした動きを、軍部は当然よく思いません。ウォーターゲート事件がホワイトハウスを震撼させるまでに至ったそのキッカケは、ワシントン・ポスト紙の「特ダネ」であり、その記事を書いた人物こそ、国防省に勤めていた元軍人だったのです。また、ホワイトハウスで彼の報告を受けていた大統領補佐官も陸軍大佐でした。つまり、軍の上層部にいた人物たちが、組織の指示で大統領失脚を図った…という説です。ただしこれは、現在でも仮説でしかないのです。

 

アメリカ市民が垣間見た巨大な闇、「ウォーターゲート事件」。もしかしたらそこには、国家の闇よりさらに深い軍部の闇が潜んでいたかもしれません。

2012年12月2日日曜日

元禄赤穂事件あれこれ


戦のない平穏な江戸の世に生きる人々を熱くした出来事。その発端から47人の志士の行動、そして最期までを「元禄赤穂事件」と言い、それを主題にした浄瑠璃・歌舞伎・講談などの一系統が「忠臣蔵」と呼ばれます。現在では時代劇の定番であり、日本人ならば誰もがよく知るお話ですね。その内容は今さら記すまでもないので、今回は、様々な資料の中から元禄赤穂事件の面白いお話を幾つか紹介します。

 

《 必ず当たる芝居 》

江戸庶民を惹き付けたこの出来事は、赤穂浪士たちの切腹から僅か12日後の1703年2月16日に最初の芝居が演じられました。当時は、徳川幕府が事実に基づいた実録風の芝居を禁じていたため、鎌倉時代の曽我兄弟の物語になぞらえて上演されましたが、3日間で終わってしまったそうです。しかし1706年、近松門左衛門が人形浄瑠璃でこれを演じ、また歌舞伎でも数多くの舞台が披露されます。幕府の思惑など吹き飛ばす江戸の庶民パワーで、その後は何度も上演され、芝居の当たり定番となりました。

 

《 松の廊下の真実 》

忠臣蔵の物語の中でも、とくによく知られた場面が「松の廊下」の事件ですね。例の「で…殿中でござる」です。この事件は、その場に居合わせ浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を押さえたと言われる梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)の日記に記されています。実はその日記には、「殿中」の場所が松の廊下だったとは記されておらず、研究家の中には表白書院の大廊下ではないかと考える人もいます。つまり、壁も襖も真っ白な場所で、それでは芝居にしたとき絵にならないと、劇作家が後付けで考えたかもしれないのです。

 

《 内匠頭の御馳走役 》

天皇の勅使をおもてなしする御馳走役、現代風に言えば宴会の幹事でしょうか。忠臣蔵では、これが初めての浅野内匠頭が慣れない仕事に戸惑うワケですが、史実はそうではないようです。実は17歳にして、朝鮮からの勅使の御馳走役に抜擢されており、江戸城内での仕事は3回目でした。しかも、前の2回も吉良上野介が指南役を務めており、ふたりの人間関係は、忠臣蔵に語られるほど悪くはなかったのです。

 

《 浅野家と吉良家の不思議な運命 》

赤穂浪士たちの残された家族で、とくに男性19人は遠島になりました。しかし、15歳未満は僧侶になる事を条件に遠島を免除されたのです。そして1709年には武家社会への復帰も許され、浅野大学は500石の旗本にまで復活しました。一方の吉良家は、当主の左兵衛が赤穂浪士を安易に屋敷に侵入させた事を理由に、領地を失います。つまり、警備が甘かったというワケですね。さらに、左兵衛本人が軽いケガだけだった事も、「逃げていたのではないか。武士にあるまじき姿」とされ、信濃の国に流されてしまいました。左兵衛はそこで病気になり亡くなります。22歳の若さでした。高家として栄えた吉良家は、ここで途絶えてしまったのです。

 

忠臣蔵の特徴は、物語の壮大さかもしれませんね。赤穂浪士をひとりずつ語るだけでも、47話が作れるのですから。最近はあまり見かけませんが、ひと昔前は12月になるとこの時代劇がテレビや映画に登場していました。そんな元禄赤穂事件の中から、わたしなりに選んだ面白話しでした。