「東の地には、ジパングという名の黄金の国がある」。このお話をヨーロッパに広げたのは、13世紀、イタリアの旅行家マルコ・ポーロがアジア諸国の旅で見たり聞いたりした事を、のちの幽閉生活で、同じ囚人の作家に口述記録してもらった旅行記「東方見聞録」です。ここに記されたジパングが日本である事は、長い間、当然の事実として考えられていました。しかし近年、東方見聞録が詳細に検証されるようになると、「ジパングは日本ではなかった」という説が浮上してきたのです。
2013年6月25日火曜日
黄金の国・ジパング伝説
2013年6月21日金曜日
空想の伝説・惑星クラリオン
1952年7月のある夜、車の修理工トルーマン・ベラサムは、ネバタ州内の国道を走っていました。すると突然、上空から眩しい光線が射し、円盤型のUFOが出現。そこから降りて来た女性の異星人(?)は、ベラサムにこう伝えました。自分はクラリオンという惑星から来た。惑星クラリオンは月の向こう側にあり、地球と月とクラリオンは一直線上にあるので、地球からは見えない…と。ベラサムはその後、女性異星人と何度も会い、彼女の語りを「空飛ぶ円盤の秘密」という本にしました。これが、UFO史上で「惑星クラリオン」が最初に登場したときのお話です。
2013年6月14日金曜日
宇宙人ユミットの笑える手紙
1960年代の初頭から、地球に潜入しているウンモ星人ユミットの手紙が、何人かのスペイン人に届くようになりました。手紙には、地球の科学をはるかに超える驚異的な理論が多数記されており、その通信は現在も続いているそうです。地球の科学を超えるならば、なぜ手紙なの? と、冒頭から言ってしまいますが、このお話は謎解き云々ではありません。「驚異的な科学理論」とは、高校生以上の科学の知識を持つ人ならば「笑える冗談」としか思えない始末なのです。例えば、超電導の機械の材質が「純度100パーセントのチタン」だそうですが、チタンは超電導に最も適さない物質なのです。また、人間のDNAにはクリプトン原子が含まれると記されていても、原子物理学的にクリプトンがDNAに含まれる事はなく、実際、検出もされていません。
手紙には、ウンモ語なるモノが多数書かれているそうです。例を挙げると、「われわれはウンモ星から来て、宇宙船は南フランスに着いた」をウンモ語にすれば、「DO UMMO DO DO UMMO UMMO DO DO DO」になると言います。これ、けっこう笑えると思いませんか? 何をどう翻訳すれば、どの「DO」が宇宙船でどの「DO」が南フランスになるのでしょう? ただ驚くべきは、この冗談みたいな手紙の記述をもとに、フランスの国立科学研究所の理学博士が著書を出している事実です。しかも彼は、パリ科学アカデミーで論文も発表しているのです。手元の資料によれば、前者の著書は「素人さん向け」、後者の論文は学界がすでに確認している事の繰り返しだそうです。
ウンモ星人ユミットなど、もちろん存在しません。その正体は何人かのスペイン人で、とくにホセ・ルイス・ペナという男性が、熱心に手紙を書き続けているそうですよ。正体どころか名前も知られているのに、まだ続ける…これもまた、笑えますね。
2013年6月10日月曜日
戦慄の吸血鬼伝説
最近のハリウッド映画で、派手なアクションを披露している一族は別にして、現代人が思い浮かべる吸血鬼のイメージは万国共通ですね。人間を襲い血を吸い尽くす。鏡に映らず、日光やニンニク、十字架、聖水を嫌い、その容姿は美しく不老不死。そして身分は高く、ほとんどが貴族階級の紳士とレディです。これはジョン・ポリドリの「吸血鬼」、シェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」といった、18世紀から西ヨーロッパで創作された文学や芝居などのエンターテイメントが生み出したイメージです。そのイメージを世界的に広げ、現代でも定番となるほど定着させた作品が、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ伯爵」でした。
2013年6月9日日曜日
アメリカン・モンスター「ウサギと猫」
アメリカには、モンスターがお好きな人々が多いようです。そんなお国柄が生み出した怖い怪物をふたつ、今回は紹介します。
まずは、バージニア州フェアファッスのクリフトン周辺に出没するといわれる「バニー・マン」です。ハロウィンの時期に現れるモンスターで、その誕生は100年ほど前のある事件でした。クリフトンには異常犯罪者を収容する刑務所がありましたが、1904年の秋、閉鎖されることになりました。そこで、同じ州内にあるロートン刑務所に囚人たちを移します。しかし、彼らの護送中にバスが事故を起こし、その騒ぎに紛れて何人かの囚人が脱走しました。警察の強力な捜査網をかいくぐり逃げ延びたのが、ダグラス・J・グリフォンでした。彼の逃走後、この地域では木の枝にぶら下がるウサギの死骸があちこちで発見されます。地元の住民は恐怖に震えましたが、警察はグリフォンが州外に逃げたと判断。捜索を打ち切ります。人々は安心し、逃走犯の噂も消えかけた翌年、恐るべき事件が発生しました。この地域のトンネル内で、3人の子供の命が奪われたのです。しかも、トンネルの天井からぶら下がった姿は、あのウサギそのものだったといいます。以後、ハロウィンの時期になると「バニー・マンに襲われた」という報告が相次ぎ、トンネルには「バニーマン・ブリッジ」なる別名がついたのです。現在では、この場所で「バニー・マン」と3回言えればモンスターが現れるなんてお話にまで派生しております。
さて次のモンスターは、ノースカロライナ州の小さな町ブラデンボロの住民を、恐怖のどん底に落した「ヴァンパイア・キャット」です。事の始まりは1954年1月。この町のある家で飼われていた3匹の犬が、頭を噛み砕かれた姿で発見された事件です。以後立て続けに、この地域一帯のペットや家畜が全身を鋭い牙で噛まれ殺される事件が起きます。しかもそのほとんどは、血を全部吸い取られていたというのです。住民の恐怖はハンパではなく、女性や子供は昼夜を問わず外出せず、男性も銃を身につけなければ外に出られませんでした。多くの人の目撃証言により、事件の「犯人像」が明らかになります。体長1・5メートル、尾は1メートルほどの巨大な生物で、その動きや鳴き声は猫そのものでした。また発見された足跡から推測される体重は、なんと70キロ以上という、ライオンやトラも超える大きさで、「ヴァンパイア・キャット」と呼ばれるようになります。当局は、かなり大きな山猫と断定。実際、全米から集まったハンターたちの手で、巨大な山猫が捕獲されました。以後、ペットや家畜の被害はなくなりましたが、はたして、本当にそれがヴァンパイア・キャットだったのでしょうか。ブラデンボロでは、今もこの恐怖のモンスター伝説が語り継がれているそうです。
2013年6月8日土曜日
平家落人伝説の真実
1185年3月24日、「源平合戦」の最後の舞台・壇ノ浦の戦いに敗れた平家。その残党は落武者となって全国に散り、日本各地の山間部に隠れ住んで子孫を残しました。これが、世に語られる「平家落人伝説」です。この伝説は、北は三陸地方から南は奄美大島に至るまで約150か所の山間の集落にあり、とくに壇ノ浦に近い九州や四国、中国地方に多く語られます。壇ノ浦での平家の兵力は、船500隻とも1000隻ともいわれた大軍だったので、実際に逃げ延びた武士が中にはいた可能性はあります。しかし、彼らは源氏の追撃を逃れるため、その身分や素性を徹底的に隠したはずであり、史実として裏付けされる落人伝説はほとんどないといわれます。
2013年6月6日木曜日
平安サクセス・ストーリー「わらしべ長者」
転んだとき偶然手にした一本のワラが、最後には大きなお屋敷になります。そのダイナミックな展開と、ひとりの貧しい男性が幸福への階段を登って行くサクセス・ストーリーが語られる「わらしべ長者」。原型は「今昔物語」に記されており、「貧しくても、心が優しく豊かならば幸せになれる」という説話です。しかしその内容は、当時の経済状況や主人公の稀に見る「投機的才能」が読み取れる、実に奥深い物語なのです。
まずは、物語を簡単に紹介します。長谷寺に寝泊まりしていたひとりの男性は、ある夜、夢に現れた僧侶にこう告げられます。「寺を出るとき最初に手に触れた物を、大切に持って行きなさい」。翌朝、お寺の階段でつまづき転んで、地面に落ちていた一本のワラが手に触れました。男性はお告げを守り、ワラを持って旅に出ます。旅の途中で様々な人に出会い、ワラがみかんに、みかんが布に、そして布が馬にと変わっていき、最後は大きな屋敷の主に馬を譲ります。その馬で旅に出た主が戻らなかったため、男性は屋敷で幸せに暮らしたのです。
「今昔物語」は平安末期の書です。この時代の日本は、まだ貨幣価値が広く浸透しておらず、経済は物と物を交換するという価値観で成り立っていました。「わらしべ長者」の主人公は、夢のお告げの大切なワラを欲しいと言われて譲ったり、喉の渇きに苦しむ女性にみかんを差し出したりと、その優しさが随所に表れています。しかし、物語を詳しく読み解けば、お告げがあるまで観音堂に居座り続ける根性や、布と馬の交換のときも、三反の布のうち二反は手元に残すという「計算高さ」がありました。また馬も、それを受け取ってもらえそうな資金力のある人物に狙いを定めて交渉します。彼は平安時代の交換経済において、とても優秀な投機の才能を持っていたワケです。
わらしべ長者は、長谷寺の観音菩薩のご利益と、主人公の才覚で実現した平安サクセス・ストーリーと言えるでしょう。
2013年6月1日土曜日
エル・ドラドの黄金伝説
中世の大航海時代、海の彼方を目指した探検家たちの話として、黄金の都の伝説がヨーロッパに広がりました。その呼び名「エル・ドラド」とは、元はアンデス山脈北側の高地に住むムイスカ族の首長の事です。「金粉を塗る人」という意味のスペイン語であり、新しい首長が、就任の儀式で全身に金粉を塗り、聖なる湖に飛び込んで金粉を洗い流した事に由来します。その際、部族の人々はエメラルドや金の装飾品を湖に投げ込み、首長の就任を祝いました。これがやがて、「インカ帝国の北側に黄金の地がある」という伝説に変わったのです。
ムイスカ族が住んでいた場所は、現在のコロンビアの首都ボゴタ周辺と言われています。ただ16世紀ではそれさえはっきり判っておらず、古い地図にはエル・ドラドがあちこちに記されていたそうです。その不確定な地図を頼りに、数多くの探検家たちが黄金の都を目指しましたが、結果は酷いものでした。例えばドイツの総督ゲオルグ・ホエルムートは、1535年に400人の遠征隊を率いてエル・ドラドに向かいました。伝説の湖とされるグアタビータ湖の近くまで行きましたが、そのときの隊員は100人余り。気力も体力も、そして資金も底をついて国に引き返したそうです。その翌年に挑戦した同じくドイツ人の探検家ニコラス・フェーダーマンはさらに酷く、約1000人の遠征隊がムイスカ族の村に到着したときは90人にまで減っていました。現地の激しい気候や自然、マラリアなどの伝染病が、彼らの行く手を遮ったのです。
結局、ヨーロッパ人には発見できず、伝説だけが語り継がれた「エル・ドラド」。ムイスカ族は、本当に黄金の民だったのでしょうか。ボゴタ周辺に鉱山はありますが、金鉱は存在しない事が現在では解っています。ただ、ホエルムートやフェーダーマンがムイスカの村で大量の金の装飾品を見たのは事実です。これは、ムイスカ族の人々が交易で入手した金を細工して作った物でした。また1545年、エルナン・ペレスという人物が、グアタビータ湖の水をバケツで汲み上げるという人海戦術を展開し、3ヶ月かけて水位を下げ、湖に沈む数百個の金製品を回収しました。その40年後にも、スペインの商人が排水用のトンネルを掘り、金製品やエメラルドをたくさん回収したそうです。ただ、土砂崩れで計画は中断。20世紀になり、イギリスの企業がトンネル方式で再挑戦するも、やはり激しい土砂崩れと湖底の泥の硬さで断念しました。
黄金の都ではありませんが、アンデス山脈北側の小さな湖に、大量の黄金が眠っているのは事実です。ただしそこは、女神が宿る聖なる場所であり、その湖底に沈む物も、儀式で捧げられた聖なる品物です。お金に換算する価値観しかない人にとっては、まさに「永遠の伝説」であり続けるでしょう。
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