2013年6月25日火曜日

黄金の国・ジパング伝説


「東の地には、ジパングという名の黄金の国がある」。このお話をヨーロッパに広げたのは、13世紀、イタリアの旅行家マルコ・ポーロがアジア諸国の旅で見たり聞いたりした事を、のちの幽閉生活で、同じ囚人の作家に口述記録してもらった旅行記「東方見聞録」です。ここに記されたジパングが日本である事は、長い間、当然の事実として考えられていました。しかし近年、東方見聞録が詳細に検証されるようになると、「ジパングは日本ではなかった」という説が浮上してきたのです。

 
まずは、「東方見聞録」の信憑性です。歴史研究家のフランシス・ウッドは著書の中でこう指摘しています。旅の記録であるはずが、自身の事を書いた記述が極端に少ない。また地理的な記述も旅した場所の連続性に欠け、地名も細かくない。イギリスの歴史家ヘンリー・ユールも、「マルコの述べた道筋がどうやってとれるのか解らない」という意見を記しています。日本では「東方見聞録」で知られるこの文書も、当初は「世界の記述」という書名であり、マルコが語ったオリジナルの手稿は早くに紛失してしまいました。同書は150種類もの写本から編集され、それは様々な時代・国・著者によって内容の差異が生じたと言われます。研究者の間で読まれるようになった「東方見聞録」は、マルコが旅した時代から250年も後の1553年、ジョヴァンニ・V・ラムージオなる人物が紹介した「ラムージオ版」なのです。

 
さて、そうした東方見聞録に記されたジパングは、「東の彼方、大陸から1500マイルの大洋にある」のです。1500マイルとは約2400キロで、どう考えても日本列島ではないようです。また、「ジパングの海域には7448個の島々がある」、「島々では香木、黒胡椒、白胡椒が豊富に採れる」とも記され、これらの記述から、赤道近くの東南アジアにジパングがあったと考える学識者が少なくないのです。しかも、詳細な検証が続く現在では、さらに具体的な地名まで提唱されており、ボルネオ島ではないかと言うのです。ボルネオ島は東方見聞録の記述のすべてに合致しませんが、少なくとも日本よりは現実味があるそうですよ。

 
黄金伝説は、世界各地で語られています。大航海時代の到来にも影響を及ぼしたと言われる、ひとりの旅行家の「旅記録」。それを手に大海原へ旅立った多くの冒険家たちは、結局、「東の彼方の黄金の国」は発見できませんでした。

2013年6月21日金曜日

空想の伝説・惑星クラリオン


1952年7月のある夜、車の修理工トルーマン・ベラサムは、ネバタ州内の国道を走っていました。すると突然、上空から眩しい光線が射し、円盤型のUFOが出現。そこから降りて来た女性の異星人()は、ベラサムにこう伝えました。自分はクラリオンという惑星から来た。惑星クラリオンは月の向こう側にあり、地球と月とクラリオンは一直線上にあるので、地球からは見えない…と。ベラサムはその後、女性異星人と何度も会い、彼女の語りを「空飛ぶ円盤の秘密」という本にしました。これが、UFO史上で「惑星クラリオン」が最初に登場したときのお話です。

 
次は1981年9月。イタリア人ジャーナリストのマリオッツォ・カヴァーロが、惑星クラリオンから来たという異星人に遭遇します。そのメッセージによれば、彼らは5億年前から文明を持ち、1億8000万年前に地球を訪れ、原始的な生物の遺伝子操作により人類を誕生させたそうです。ただしこのとき、惑星クラリオンは地球から15万光年の位置にあると言ったとか。月の向こう側にあったベラサムの時代から、またずいぶん離れてしまったものです。

 
異星人との遭遇を主張するコンタクティたちの怪しいところは、遭遇の仕方がほとんど同じである事です。UFOが出現し、その中から現れ、自分たちの星の話や地球の過去とか未来を語る…同じパターンの繰り返しです。これらはすべて、人類最初のコンタクティと言われるヒル夫妻の話と根本的に変わってないのです。それでもUFO信者たちに指示され、語り継がれる…まさに都市伝説の典型と言えるでしょう。しかし、「異星人がこう語った」と世間に公表するのならば、天文学の最低限の知識は身につけてほしいものです。

 
今回の惑星クラリオンにしても、1952年のベラサムは、その星から来た異星人の「宇宙から見た地球は月そっくりだ」とか「地球は光と影だけだ」という言葉を、著書に記しています。人類がまだ、大気圏の外へ出ていない時代だったので、単に地上の人間の空想に過ぎない事が、今ではよく解りますね。しかも、地球と月の一直線上の軌道にある惑星なんて、この時代でも、天文学のちょっとした知識があれば「物理的に有り得ない」と理解できるはずです。さらに呆れるのは、1981年のイタリア人ジャーナリストです。惑星クラリオンは15万光年離れた第三銀河のわし座にあると、大真面目に主張しました。星座というのは、地球から見える星の配置で誕生したモノであり、15万光年も彼方の銀河に星座などありましょうか。

 
惑星クラリオンは、完全な空想伝説としか言いようがありません。それでもまだ、この惑星の存在を信じる人や、ここからやって来た異星人とコンタクトしたと言う人がいるそうですよ。

2013年6月14日金曜日

宇宙人ユミットの笑える手紙


1960年代の初頭から、地球に潜入しているウンモ星人ユミットの手紙が、何人かのスペイン人に届くようになりました。手紙には、地球の科学をはるかに超える驚異的な理論が多数記されており、その通信は現在も続いているそうです。地球の科学を超えるならば、なぜ手紙なの? と、冒頭から言ってしまいますが、このお話は謎解き云々ではありません。「驚異的な科学理論」とは、高校生以上の科学の知識を持つ人ならば「笑える冗談」としか思えない始末なのです。例えば、超電導の機械の材質が「純度100パーセントのチタン」だそうですが、チタンは超電導に最も適さない物質なのです。また、人間のDNAにはクリプトン原子が含まれると記されていても、原子物理学的にクリプトンがDNAに含まれる事はなく、実際、検出もされていません。

 

手紙には、ウンモ語なるモノが多数書かれているそうです。例を挙げると、「われわれはウンモ星から来て、宇宙船は南フランスに着いた」をウンモ語にすれば、「DO UMMO DO DO UMMO UMMO DO DO DO」になると言います。これ、けっこう笑えると思いませんか? 何をどう翻訳すれば、どの「DO」が宇宙船でどの「DO」が南フランスになるのでしょう? ただ驚くべきは、この冗談みたいな手紙の記述をもとに、フランスの国立科学研究所の理学博士が著書を出している事実です。しかも彼は、パリ科学アカデミーで論文も発表しているのです。手元の資料によれば、前者の著書は「素人さん向け」、後者の論文は学界がすでに確認している事の繰り返しだそうです。

 

ウンモ星人ユミットなど、もちろん存在しません。その正体は何人かのスペイン人で、とくにホセ・ルイス・ペナという男性が、熱心に手紙を書き続けているそうですよ。正体どころか名前も知られているのに、まだ続ける…これもまた、笑えますね。

2013年6月10日月曜日

戦慄の吸血鬼伝説


最近のハリウッド映画で、派手なアクションを披露している一族は別にして、現代人が思い浮かべる吸血鬼のイメージは万国共通ですね。人間を襲い血を吸い尽くす。鏡に映らず、日光やニンニク、十字架、聖水を嫌い、その容姿は美しく不老不死。そして身分は高く、ほとんどが貴族階級の紳士とレディです。これはジョン・ポリドリの「吸血鬼」、シェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」といった、18世紀から西ヨーロッパで創作された文学や芝居などのエンターテイメントが生み出したイメージです。そのイメージを世界的に広げ、現代でも定番となるほど定着させた作品が、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ伯爵」でした。

 
このドラキュラ伯爵には、モデルとなった人物が実在したのはよく知られるお話ですね。15世紀、現在のルーマニア・トランシルバニアを治めていた公爵、ヴラド・ツェペシュです。「串刺し公」の異名を持つ惨忍極まる人物でしたが、彼のほかにもうひとり、血に執着し吸血鬼のモデルといわれた女性が実在しました。ハンガリーの名家に生まれたエリザベート・バートリです。彼女は、自分の美貌を保つには若い女性の血が効くと信じていました。城で働く女性や近隣の村の娘を大勢殺し、その血を風呂に満たし全身に浴びていたそうです。「血の伯爵夫人」と呼ばれ、居城からは600体もの女性の遺体が発見されたといいます。

 
吸血鬼伝説はこうしたエンターテイメントとは別に、実際の事件から語り継がれるようになった「純粋な伝説」があります。ある意味、こちらが本物の吸血鬼伝説といえるでしょう。1725年、ヨーロッパのある村で、亡くなった男性が埋葬されてから10週間後に生き返り、村人を襲ったのです。彼のお墓を掘り返えしてみれば、棺の中の姿は生前のまま、口の周りには鮮血がついていたといいます。この逸話が吸血鬼像の形成に影響を与え、ヨーロッパでは、亡くなった人が吸血鬼になると考えられるようになりました。ただ現実には、密閉された棺の中で生前の姿を保つ事はあり得るのです。1314年に亡くなったある国の王さまは、500年余りが過ぎて移葬のため棺を開けたところ、生前の面影をとどめていたそうです。また医学が現在ほど発達していなかった中世では、可死状態のまま埋葬してしまい、蘇生した本人の声や棺を叩く音が墓地に響いたこともありました。その恐怖が、吸血鬼伝説を生んだのです。

 
太古の時代から、血液は生命力の象徴として崇められてきました。その血で、永遠の命を繋ぐ吸血鬼。暗闇に潜み、自らの運命を悲しみ、そして倒錯した愛を求める姿が醸し出す独特のエロスは、現代人を強く惹き付けます。アメリカのある超心理学者は吸血鬼研究を続けており、実際に439歳の吸血鬼と自称する女性に会ったそうですよ。その言葉の信憑性は別問題としても、21世紀の現代社会の中に、自分は吸血鬼だと信じる人々が存在しているのです。

2013年6月9日日曜日

アメリカン・モンスター「ウサギと猫」


アメリカには、モンスターがお好きな人々が多いようです。そんなお国柄が生み出した怖い怪物をふたつ、今回は紹介します。

 

まずは、バージニア州フェアファッスのクリフトン周辺に出没するといわれる「バニー・マン」です。ハロウィンの時期に現れるモンスターで、その誕生は100年ほど前のある事件でした。クリフトンには異常犯罪者を収容する刑務所がありましたが、1904年の秋、閉鎖されることになりました。そこで、同じ州内にあるロートン刑務所に囚人たちを移します。しかし、彼らの護送中にバスが事故を起こし、その騒ぎに紛れて何人かの囚人が脱走しました。警察の強力な捜査網をかいくぐり逃げ延びたのが、ダグラス・J・グリフォンでした。彼の逃走後、この地域では木の枝にぶら下がるウサギの死骸があちこちで発見されます。地元の住民は恐怖に震えましたが、警察はグリフォンが州外に逃げたと判断。捜索を打ち切ります。人々は安心し、逃走犯の噂も消えかけた翌年、恐るべき事件が発生しました。この地域のトンネル内で、3人の子供の命が奪われたのです。しかも、トンネルの天井からぶら下がった姿は、あのウサギそのものだったといいます。以後、ハロウィンの時期になると「バニー・マンに襲われた」という報告が相次ぎ、トンネルには「バニーマン・ブリッジ」なる別名がついたのです。現在では、この場所で「バニー・マン」と3回言えればモンスターが現れるなんてお話にまで派生しております。

 

さて次のモンスターは、ノースカロライナ州の小さな町ブラデンボロの住民を、恐怖のどん底に落した「ヴァンパイア・キャット」です。事の始まりは1954年1月。この町のある家で飼われていた3匹の犬が、頭を噛み砕かれた姿で発見された事件です。以後立て続けに、この地域一帯のペットや家畜が全身を鋭い牙で噛まれ殺される事件が起きます。しかもそのほとんどは、血を全部吸い取られていたというのです。住民の恐怖はハンパではなく、女性や子供は昼夜を問わず外出せず、男性も銃を身につけなければ外に出られませんでした。多くの人の目撃証言により、事件の「犯人像」が明らかになります。体長1・5メートル、尾は1メートルほどの巨大な生物で、その動きや鳴き声は猫そのものでした。また発見された足跡から推測される体重は、なんと70キロ以上という、ライオンやトラも超える大きさで、「ヴァンパイア・キャット」と呼ばれるようになります。当局は、かなり大きな山猫と断定。実際、全米から集まったハンターたちの手で、巨大な山猫が捕獲されました。以後、ペットや家畜の被害はなくなりましたが、はたして、本当にそれがヴァンパイア・キャットだったのでしょうか。ブラデンボロでは、今もこの恐怖のモンスター伝説が語り継がれているそうです。

2013年6月8日土曜日

平家落人伝説の真実


1185年3月24日、「源平合戦」の最後の舞台・壇ノ浦の戦いに敗れた平家。その残党は落武者となって全国に散り、日本各地の山間部に隠れ住んで子孫を残しました。これが、世に語られる「平家落人伝説」です。この伝説は、北は三陸地方から南は奄美大島に至るまで約150か所の山間の集落にあり、とくに壇ノ浦に近い九州や四国、中国地方に多く語られます。壇ノ浦での平家の兵力は、船500隻とも1000隻ともいわれた大軍だったので、実際に逃げ延びた武士が中にはいた可能性はあります。しかし、彼らは源氏の追撃を逃れるため、その身分や素性を徹底的に隠したはずであり、史実として裏付けされる落人伝説はほとんどないといわれます。

 
平家落人伝説が全国各地に残るのは、「平家物語」が集落の存続のため活用された事に由来すると考えられています。つまり、「自分たちは平家の末裔なのだから、団結してその血筋を守っていこう」という意識づけです。その象徴的な場所が、岐阜県の白川郷です。現在は世界遺産としてよく知られた集落ですが、その前は文字通りの「陸の孤島」でした。それでも、独自の伝統を守り続けることができたのは、平家落人伝説により村人たちの結束が強まったからだそうです。

 
こうした各地の平家落人伝説の内容は、「村民全員の祖先が平家ゆかりの一族と信じられている」、「安徳天皇が隠れ住んだ里といわれる」、「平家一門の家系が存続しているとされる」の三つに大別できるようです。このうち三つ目には、史実と一致する本物の落人伝説と思われるケースがあります。石川県内にある時国(ときくに)家です。その祖先は大納言・平時忠(たいらのときただ)の五男、時国であり、この一族は身内を源氏に嫁がせることで免罪となり、能登に流されました。これは史実として「吾妻鏡」に記されていて、時国家の家史とも一致するそうです。そのため、時国家の落人伝説は真実と見る歴史家が多いのです。

 
それにしてもいにしえの時代、山深い場所を開拓し村を作ったのは誰だったのでしょうか。それは戦乱の世で大量に発生した落武者たちであり、厳しい環境を生き抜くため、「武士のブランド」ともいえる平家の子孫であることを信じ結束したと考えられています。その想いは次の世代へと受け継がれ、そして現在でも平家落人伝説として語られるのです。

2013年6月6日木曜日

平安サクセス・ストーリー「わらしべ長者」


転んだとき偶然手にした一本のワラが、最後には大きなお屋敷になります。そのダイナミックな展開と、ひとりの貧しい男性が幸福への階段を登って行くサクセス・ストーリーが語られる「わらしべ長者」。原型は「今昔物語」に記されており、「貧しくても、心が優しく豊かならば幸せになれる」という説話です。しかしその内容は、当時の経済状況や主人公の稀に見る「投機的才能」が読み取れる、実に奥深い物語なのです。

 

まずは、物語を簡単に紹介します。長谷寺に寝泊まりしていたひとりの男性は、ある夜、夢に現れた僧侶にこう告げられます。「寺を出るとき最初に手に触れた物を、大切に持って行きなさい」。翌朝、お寺の階段でつまづき転んで、地面に落ちていた一本のワラが手に触れました。男性はお告げを守り、ワラを持って旅に出ます。旅の途中で様々な人に出会い、ワラがみかんに、みかんが布に、そして布が馬にと変わっていき、最後は大きな屋敷の主に馬を譲ります。その馬で旅に出た主が戻らなかったため、男性は屋敷で幸せに暮らしたのです。

 

「今昔物語」は平安末期の書です。この時代の日本は、まだ貨幣価値が広く浸透しておらず、経済は物と物を交換するという価値観で成り立っていました。「わらしべ長者」の主人公は、夢のお告げの大切なワラを欲しいと言われて譲ったり、喉の渇きに苦しむ女性にみかんを差し出したりと、その優しさが随所に表れています。しかし、物語を詳しく読み解けば、お告げがあるまで観音堂に居座り続ける根性や、布と馬の交換のときも、三反の布のうち二反は手元に残すという「計算高さ」がありました。また馬も、それを受け取ってもらえそうな資金力のある人物に狙いを定めて交渉します。彼は平安時代の交換経済において、とても優秀な投機の才能を持っていたワケです。

 

わらしべ長者は、長谷寺の観音菩薩のご利益と、主人公の才覚で実現した平安サクセス・ストーリーと言えるでしょう。

2013年6月1日土曜日

エル・ドラドの黄金伝説


中世の大航海時代、海の彼方を目指した探検家たちの話として、黄金の都の伝説がヨーロッパに広がりました。その呼び名「エル・ドラド」とは、元はアンデス山脈北側の高地に住むムイスカ族の首長の事です。「金粉を塗る人」という意味のスペイン語であり、新しい首長が、就任の儀式で全身に金粉を塗り、聖なる湖に飛び込んで金粉を洗い流した事に由来します。その際、部族の人々はエメラルドや金の装飾品を湖に投げ込み、首長の就任を祝いました。これがやがて、「インカ帝国の北側に黄金の地がある」という伝説に変わったのです。

 

ムイスカ族が住んでいた場所は、現在のコロンビアの首都ボゴタ周辺と言われています。ただ16世紀ではそれさえはっきり判っておらず、古い地図にはエル・ドラドがあちこちに記されていたそうです。その不確定な地図を頼りに、数多くの探検家たちが黄金の都を目指しましたが、結果は酷いものでした。例えばドイツの総督ゲオルグ・ホエルムートは、1535年に400人の遠征隊を率いてエル・ドラドに向かいました。伝説の湖とされるグアタビータ湖の近くまで行きましたが、そのときの隊員は100人余り。気力も体力も、そして資金も底をついて国に引き返したそうです。その翌年に挑戦した同じくドイツ人の探検家ニコラス・フェーダーマンはさらに酷く、約1000人の遠征隊がムイスカ族の村に到着したときは90人にまで減っていました。現地の激しい気候や自然、マラリアなどの伝染病が、彼らの行く手を遮ったのです。

 

結局、ヨーロッパ人には発見できず、伝説だけが語り継がれた「エル・ドラド」。ムイスカ族は、本当に黄金の民だったのでしょうか。ボゴタ周辺に鉱山はありますが、金鉱は存在しない事が現在では解っています。ただ、ホエルムートやフェーダーマンがムイスカの村で大量の金の装飾品を見たのは事実です。これは、ムイスカ族の人々が交易で入手した金を細工して作った物でした。また1545年、エルナン・ペレスという人物が、グアタビータ湖の水をバケツで汲み上げるという人海戦術を展開し、3ヶ月かけて水位を下げ、湖に沈む数百個の金製品を回収しました。その40年後にも、スペインの商人が排水用のトンネルを掘り、金製品やエメラルドをたくさん回収したそうです。ただ、土砂崩れで計画は中断。20世紀になり、イギリスの企業がトンネル方式で再挑戦するも、やはり激しい土砂崩れと湖底の泥の硬さで断念しました。

 

黄金の都ではありませんが、アンデス山脈北側の小さな湖に、大量の黄金が眠っているのは事実です。ただしそこは、女神が宿る聖なる場所であり、その湖底に沈む物も、儀式で捧げられた聖なる品物です。お金に換算する価値観しかない人にとっては、まさに「永遠の伝説」であり続けるでしょう。