2012年7月14日土曜日

和製恐怖系都市伝説「すき間の人」





世界の各地で語られる都市伝説は、ワールドワイドなお話もあれば、その国独特の文化で育まれた物語もあります。とくに後者は、その国以外ではほとんど普及せず、例えば欧米でよく語られる「ママのひと言」という都市伝説は、日本人にはあまり理解できないでしょう。イソップ童話が原型のかなり怖いお話ですが、逆に、海を渡らない日本独特の恐怖系都市伝説もあるのです。それは、こんなお話です。



Tさんは、都会でひとり暮らしをする若い女性です。彼女の自宅は女性専用のマンションでしたが、ある日を境に、不思議な恐怖を感じるようになります。じっと自分を見つめる視線や、息を潜めた「誰か」が部屋にいる気配を感じたのです。壁に穴があいているワケでもなく、しかも隣り近所はすべて女性なので、妙な事をする人もいないはず。カギをかけ、窓のカーテンを閉めても何者かの視線や気配は消えませんでした。それが数日間続き、ついに耐えられなくなったTさんは、友達を何人か呼び、みんなで部屋を調べました。すると、なんとも恐るべき原因が分かります。洋服タンスと壁の僅か数センチのすき間に、髪の長い女性が立っていたのです。しかも彼女の体半分は、壁の中に「溶け込んでいた」と言います。無表情のまま、鋭い上目使いでTさんたちを睨むその恐怖…。もちろんTさんは、翌日別のマンションに移りました。



Tさんのように、怖くて引っ越したお話の他に、この「すき間に立つ女性」を好きになってしまう男性のバージョンもあります。会社に出勤しないため、心配した職場仲間が彼のアパートを訪れます。そこにいた男性に、「何をしている」と尋ねると、彼は「彼女が行くなと言うから」と答えます。もちろん、部屋には男性以外誰もいません。職場仲間は、彼が指さした台所の冷蔵庫のすき間に立つ赤いドレスの女性を目撃しました。他にも、窓と鉄格子の僅か5センチのすき間に張り付き、部屋の中を覗く男性のお話もあります。まるで、スルメのように平たくなっていたようです。



有り得ない場所に存在する者たちが幽霊なのは、明白ですね。タンスとか冷蔵庫のすき間と言う、僅かな暗がりの設定がいかにも日本的です。それもそのはずで、この都市伝説の元は、江戸時代の「耳ぶくろ」という随筆集に記されたお話なのです。「房斎(ぼうさい)新宅怪談の事」なるタイトルで、房斎という名の人物が新しい自宅で体験した話を記しています。二階の部屋にあるタンスの引き出しがどうにも開かず、それでも力ずくでようやく開いた瞬間、引き出しの中から女性の幽霊が飛び出したのです。すき間でひたすら立つだけの現在のお話とは多少異なりますが、「すき間の人」は、日本の古い怪談が発展したお国柄豊かな都市伝説なのです。

2012年7月4日水曜日

どこにあるの?「徳川埋蔵金」


どれほど掘っても、お宝は影も形も見えず…。150年以上の歳月をかけ、数多くの人々が挑戦し続けた「お宝探し」が、現在もなお伝説でしかないその理由は、ふたつしかありません。すでに消えたか、探す場所がまったく違うかです。日本史の謎として幾つか挙げられる中のひとつ、「徳川埋蔵金」。一時期、某テレビ局の企画で盛り上がったこのお話を、今、改めて語ります。



1868年4月11日。江戸城の無血開城でその金蔵へ入った官軍は、我が目を疑い呆然と立ちすくみました。そこは空っぽ。小判1枚残されていませんでした。およそ4年前から、幕府の終焉を察知していた大老・井伊の命により、勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)が幕府御用金の持ち出し作戦を極秘に行っていたのです。その額、360万両。さらに、作戦が慣行されていた時期、勢多郡赤城村(現在の群馬県渋川市)で多くの農民が、利根川の岸に着岸する船から武士たちが大きな荷物を赤城山麓へと運んで行く光景を目撃します。ここに、徳川埋蔵金伝説が誕生しました。360万両というお金は、当時のレートで円に換算すると約100億円だそうですよ。ただし当時の幕府に、これほどの財力は残っていなかったと言う研究家もいます。実際、勘定奉行の小栗が、フランスに600万ドルの借金を申し入れた記録があるからです。ただ、終焉目前だったとはいえ、徳川家420万石。江戸城の金蔵に小判1枚もなかったのは、どう考えても不自然ですね。

ちなみに、官軍が回収した幕府のお金はほかにもあります。大阪城の御用金、金座や銀座の貨幣、南北の町奉行が保有していたお金などで、その合計は90万両でしたが、70万両の行方が不明だったそうです。



さて、伝説の地となった赤城山麓ではお宝探しが始まります。30年以上掘り続けた人、親子2代で60年もの歳月をかけた一家、また戦時中は、軍が国家事業として発掘調査を行いました。赤城山麓は穴だらけで、地下はアリの巣のよう、現在もここに住み付き探し続ける「埋蔵金のプロ」がいます。それでも発見されない現実に、「場所が違うのでは?」と考える人は当然現れるでしょう。

埋蔵金研究の第一人者と言われる畠山清行(はたけやませいこう)をリーダーとする調査団が、赤城山麓より北の旧三国街道(国道17号)や旧沼田街道(国道120号)沿いの村で有力情報を入手し、ここを発掘し始めます。結果、総延長が約90メートルと思われる謎の横穴を発見しました。しかし、調査はここで中止。横穴が国道17号線の真下にあるという理由で、当時の建設省が埋め戻してしまったのです。横穴の中に何があったのか、あるいはなかったのかは、永遠の謎となってしまったワケですね。



この国道17号線沿いは、現在、新たな発掘スポットとして注目されているそうです。ただ徳川埋蔵金伝説は、その始まりから綿密に分析すれば、100億円のお金がどうなったかそれなりの仮説は立てられます。隠した場所を知る限られた一部の人々が、倒幕から明治新政府誕生までの間に回収したのです。つまり、元の持ち主に戻ったと考える、極めて単純な仮説です。360万両という小判の物量は、50両一束の包みが7万個以上で、もしそれが現在も残っているとすれば、その場所は土の中ではなく建物の中かもしれません。