2013年11月13日水曜日

軍事ファシズムに挑んだ警察「ゴーストップ事件」


単なる信号無視が、「軍の威信」と「警察の正義」の正面衝突にまで発展した事件。勢いを増す軍事ファシズムに抵抗した浪花警察の勇気が語り継がれ、そして事件以後、抑えがなくなった軍部の暴走により、日本が極めて危険な道を突き進むキッカケともなった出来事です。

 
1933年(昭和8年)6月17日、午前11時30分ごろ。北大阪のある交差点で、陸軍第4師団所属の中村一等兵が、赤信号を無視して道路を渡ろうとしました。交通整理をしていた曾根崎署の戸田巡査は、それを注意します。しかし中村一等兵は、戸田巡査の再三の注意を信号同様に無視。戸田巡査は中村一等兵を派出所に連行、ふたりの口論はエスカレートし、ついには大ゲンカになりました。当時、現場の交差点には最新式の信号機が設置されており、「進む」と「止まる」の文字を表示していたことから、これが「ゴー・ストップ事件」と呼ばれるようになります。

 
この事件が起きた同じ年の3月、日本は国際連盟から脱退。2年前の満州事変、そして前年昭和7年の5・15事件などで、陸軍の勢力が一段と強くなっていました。派出所に連行されたときの中村一等兵の言葉、「我々軍人の取り締まりは憲兵がする。警察の言うことなど聞けるものか」は、まさにその現実でした。陸軍は自らを「皇軍」と呼び、兵士たちは自分が特別な存在だと思うようになっていたのです。事件から5日後の6月22日。中村一等兵が所属する陸軍第4師団の井関参謀長は会見を開き、事件は警察の不祥事であり、皇軍の威信に関する重大な問題であるとして、警察側に謝罪を求めました。これに対し、大阪府警察部長の粟屋仙吉(あわやせんきち)は、「兵士であろうと私人で行動する場合は、一市民としてのルールを守るべきである」と述べ、戸田巡査の行為は妥当だったと反論。警察が非を認めて謝れば、事件を円満に解決しようと考えていた井関参謀長は激怒しますが、大阪府警は交通違反の処理は妥当と一歩も引かず、両者は全面対決となったのです。

 
7月になると、井関参謀長は陸軍大臣へ、大阪府は内務大臣へそれぞれ事件を正式に報告し、ついには陸軍と内務省の対立にまで発展しました。大阪地方裁判所検事局の調停もうまくいかず、いつまで続くのかと世間がウワサし始めたころ、事は一気に解決へと向かいます。この騒ぎが昭和天皇のお耳にまで届いており、「大阪の事件は、どうなっているのか」と陸軍大臣にお尋ねになった事がキッカケでした。当時の世相として、昭和天皇のお言葉があったとなれば、いつまでもモメているのは許されません。両者は和解しましたが、その内容は「警察側が師団に対して理解を示し、儀礼を尽くす」という、円満解決にはほど遠いモノでした。警察が大幅譲歩したのは、「軍の威力にこれ以上対抗しても望みはない」の判断だったといわれます。

 
以後、「皇軍」を自称する者たちの暴走をけん制する勢力はなくなり、世界が赤信号を点灯させる危険な道を日本は突き進みます。それでもこの「ゴー・ストップ事件」は、台頭する軍事ファシズムに浪花警察が懸命の抵抗を試みた出来事として、歴史に刻まれるのです。

2013年10月22日火曜日

奇跡の血


1700年以上過ぎた現在でも、液体になる血が存在します。しかもその血は毎年3回、同じ日に「奇跡」を起こすと言うのです。宗教的な奇跡は、信者がそうだと信じていればそれでいいのですが、あまりにも現実からかけ離れているお話は、やはり謎解きしてみたくなるのです。

 
今回語るのは、ナポリの大聖堂にある「聖ヤヌアリウスの血」です。その人物は、紀元3世紀にイタリアで熱心にキリスト教を広めたサン・ジェンナロという名前の司祭で、紀元309年9月19日に彼が亡くなったとき、その血を信者の女性が瓶に詰めたそうです。それが現在でも、5月の第一日曜日と9月19日、12月16日の3回公開され、人々の祈りの中で沸騰し液化するのです。銀製の小瓶に入った血は、瓶を壊さなければ取り出せません。それでも1902年、ナポリ大学の科学者が光を当てた検査をしたところ、瓶の液体には間違いなく血液の成分が含まれている事が判明しました。

 
実はこの中身が、聖ヤヌアリウスと呼ばれるサン・ジェンナロ司祭の血かどうかは、かなり怪しいそうです。と言うのも、彼の記録はまったく残されておらず、実在したかどうかも不明なのです。さらに、彼の血が入った小瓶が記録に登場するのは1389年であり、本人が亡くなったとされる時代から1000年以上も過ぎた時期でした。つまり、聖ヤヌアリウスの伝説に合わせ、中世に誰かが作った物と思われるのです。

 
それにしても、長い歳月小瓶の中に入っており、公開されたときだけ沸騰し液化する物質などあるのでしょうか。それは、塗料だそうですよ。ペンキなどの塗料には、現代化学で「チキソトロピー」と呼ばれる性質があります。普段はゼリー状でも、圧力や衝撃を加えると液化して、しばらくそのままにしておくと、また元の状態に戻る性質だそうです。実際、1991年にイタリアの科学者が「聖ヤヌアリウスの血」と同じ性質の物質を作り出す事に成功しています。その約90年前の光を使った検査では、古い血液と塗料の光の吸収率がとてもよく似ている事実が、まだ解明されていなかったのです。

 
つまり「聖ヤヌアリウスの血」の奇跡とは、公開前に教会の関係者()が小瓶を何度か振り、中身を液化させていたのが現実だったようで…。

2013年10月5日土曜日

サンドウィッチを考え出した人は誰?


パンの間に具を挟み、片手で簡単に食べられるこのメニュー。忙しいときの食事に最適だから、考え出した人物も当然、高名なシェフではなく常に忙しい人でした。それは、18世紀のイギリス貴族ジョン・モンタギューです。海軍大臣や国務大臣を歴任した人物ですが、彼は無類のギャンブル好きでもよく知られておりました。夜ごとカジノに繰り出しては、お財布がカラになるまでカード遊びに熱中したそうですよ。

 
そんなある日のこと。カードに集中していたモンタギューに、係の人が食事の時間だと告げます。すると、彼はこう応えました。「わたしは今、手が離せない。だから、食パン2枚とローストビーフをここに持って来てくれ」。それが運ばれて来たところで、モンタギューはパンの間にローストビーフを挟み、片手でカードを動かしながら、もう片方の手でそれを食べ始めたのです。同席の人々は貴族らしからぬ様子に驚きましたが、「これは便利で手軽だ」とマネをしました。軽食サンドウィッチ誕生の瞬間でした。

 
この軽食の名前の由来は、モンタギューの伯爵名「サンドウィッチ4世」です。現在も、アメリカには彼の子孫が経営するサンドウィッチ専門店があり、各州でチェーン展開しています。お店の名物メニューは、元祖サンドウィッチのローストビーフのホットサンドだそうですよ。

2013年9月20日金曜日

ヒトラーは今も生きている?


「あの人は生き延びていました」というお話は、都市伝説の定番です。良くも悪くも歴史に名前を刻んだ人物から、世界中の人々に愛されたアーティストまで、物語の主人公たちは実に様々です。そうした都市伝説の中でも、ナチスの総統アドルフ・ヒトラーの生存説はとくによく知られていますね。今回は、その都市伝説がさらに進化した、現代社会の中に彼が存在しているというお話を語りましょう。

 
歴史としては、ヒトラーは1945年4月30日、ベルリン市内の地下室で自ら命を絶ったとされています。しかしその身は、140リットルものガソリンの海の中で徹底的に焼かれたため、本人の確認どころではなかったそうです。さらに、終戦前後の混乱に紛れてナチスの高官たちが国外へ逃れたのは事実であり、当然、ヒトラーも逃げられたはずだという説があるのです。この説を裏付けるように、ノルウェーのUボート基地まで彼を護衛し、潜水艦に乗り込むまでを見届けたと証言するナチス関係者もいました。こうした話から、ヒトラー生存説が囁かれるようになり、南米で生きていたとか、凄いところでは南極のエイリアンの基地で暮らしたなんて説も出たのです。それでも、2013年の現在に生きていると言うのならば、いったい何歳なのでしょうか?

 
この都市伝説で語られるのは、ヒトラー本人ではなく彼の遺伝子です。ナチスの機関には、科学や医学の分野で頂点を極めるドイツ人たちが大勢いました。この技術や知識がソ連側へ流れる事を何より恐れたアメリカは、ドイツ人科学者たちを免責し自国の市民として迎え入れたのです。これを「ペーパークリップ作戦」と言いますが、科学者の中にはナチス復活を願う者もいたのです。それが、生命物理学者のヨーゼフ・メンゲレでした。彼はナチス時代からクローンの研究を続けており、アメリカ市民になってもヒトラーの復活を心の中で願っていたといいます。もちろん、20世紀半ばではクローンはまだ夢物語。しかし、彼の意思を何人かの科学者が引き継いだとしたら…。都市伝説では、ヒトラーは100歳近くまで生きた事になっていて、遺伝子保存技術の確立に間に合ったそうですよ。

 
ヒトラーの遺伝子を受け継いだ者が、今、世界のどこかで息を潜め、表舞台に出る機会をうかがっている…この都市伝説はそう語ります。ただこれが、21世紀の現代社会の脅威になるでしょうか? その昔、青年将校として党に入った若きヒトラーには、アーリア人の純粋な国家を作りたいという理想がありました。これはやがて、よくない方向へ暴走しますが、民族意識より価値観のグローバル化のほうが強い現代に、ナチスの復活は難しいのではないでしょうかね。

 
ヒトラーのクローンが存在しても、たぶん「普通の人」の人生を歩むのではないかと…。

2013年9月7日土曜日

火星夢物語


科学者や専門家ではない一般の人々が、地球以外の星に知的生命体がいるかもしれないという「夢と希望」を持ち始めたのは、19世紀末、火星観測により地表に運河らしき形跡が発見されてからでした。まさに「火星夢物語」で、最初の登場人物はエレーヌ・スミスという名の女性霊媒師です。

彼女は交霊により見えた火星の風景を描き、火星人と会話したときの火星語も書き残しました。絵には流れる雲やサボテンのような植物、また、家畜を連れて荒野に立つ火星人が描かれています。さすがにこの絵を信用する人はほとんどいませんでしたが、火星語は今でも貴重な資料とされているそうで、驚きます。

 
20世紀初頭に起きた火星絡みの騒動が、1938年10月30日、アメリカのラジオ番組が放送した「宇宙戦争」です。火星人が攻撃してくるという内容は、小説を元に製作したドラマであり、ハロウィンのイベントとして放送されました。しかし、具体的な地名を使ったニュースの実況形式があまりにも現実的で、「現在、○○で交戦中」という言葉に全米がパニックになったとか。当時の人々は、本当に空から火星人が攻めて来ると信じたのです。

 
さて、21世紀になると、今度は「かつて火星に住んでいた」というロシア人の男性が現れます。彼の話では、火星は大災害により地表の空気を失い、火星人は地下で生活しているのだとか。また、自分が火星で暮らしていた時代はおよそ7万年前で、調査目的で地球に来ており、そのとき地球では幻の文明といわれるレムリアが存在したそうですよ。こうした怪しげ()な話のほかにも、探査衛星が撮影した地表の写真から、「火星都市伝説」は様々に発展しています。倒木らしきモノとか、動物の足跡、さらに右腕を前に差し出す女性のような姿まで登場しているのです。

 
2012年8月5日、アメリカ航空宇宙局の火星探査車「キュリオ・シティ」が、ついに表面着陸に成功しましたね。このニュースに、わたしはどれほど胸を弾ませた事でしょう。150年近い歳月の中で語り継がれてきた都市伝説は、これから先、現実としてわたしたちが目撃していくのです。新しい「火星夢物語」の幕開けです。

2013年8月30日金曜日

正体不明「謎の一本足」


雨上がりの大地に、そして降り積もった新雪の上に、それははっきりと残されていました。人工的ではなく明らかに生き物でも、一本足で歩いたとしか考えられない足跡です。

 
まずは2004年3月、和歌山県内の山裾に広がる町での出来事。夜中に降り続いた雨が上がった早朝、ぬかるんだ田畑で不思議な足跡が発見されます。足の大きさは縦約20センチ、横幅15センチ。そして約60センチの歩幅が、等間隔で一直線に刻まれていました。しかも、この足跡の出現は、同月11日と22日の二度だったのです。いずれも、雨上がりの朝。人間ではないし、クマやサルなどの動物でもない、「一本足の生き物」の足跡です。町の調査では正体の解明に至らず、結局謎のまま。地元の人々は、古くからこの土地に語り継がれる妖怪「カシャンボ」だと噂しました。カシャンボとは山に棲む河童の一種で、一本足にひとつ目という姿だそうです。何かが田畑を歩いたのは事実。はたして、それは妖怪だったのでしょうか?

 
続いては2009年3月5日、イングランド南西部のデヴォンシャーに出現した一本足です。こちらも早朝で、降り積もった新雪の上に残されていました。足の長さは約13センチ、歩幅は20センチで、上記の和歌山県の足跡同様、それ以外は何もありませんでした。しかも、この足跡は森を抜け入り江を渡り、州内18の町に残されていて、その全長はなんと160キロだったそうです。一晩に160キロ、しかも20センチの歩幅を正確に刻み歩き続けた一本足の正体は何だったのか。雪解けと共に足跡も消えたため、謎は解明されませんでした。デヴォンシャーでは19世紀にもまったく同じ足跡が出現しており、当時の人々は「悪魔の足跡」と呼び、とても恐れたのです。今回も、それが再び現れたと信じる人が少なくなかったそうです。何かが雪の上を歩いたのは事実。はたして、それは悪魔だったのでしょうか?

2013年8月18日日曜日

イギリスの赤いバラはなぜ散った?


1997年8月31日深夜、2台のバイクに追われパリ市内を猛スピードで走るベンツが、セーヌ川に架かるアルマ橋近くのトンネル内で中央分離帯に激突しました。大破したベンツの後部席に乗っていたのはダイアナ元皇太子妃と、婚約者でエジプト系イギリス人の実業家ドディ・アルファイド氏。運転手はふたりが宿泊していたホテルの警備責任者で、助手席にはガードマンが乗っていました。アルファイド氏と運転手はその場で亡くなり、ダイアナ元妃も運び込まれた病院で息を引き取ります。そしてガードマンだけが、一命を取り留めました。

 
世界中の人々に衝撃を与えたこの交通事故。直後は、車を追いかけていたカメラマンたちの行動が非難されましたが、パリ警察が発表した事故原因は、運転手の体調が「かなり危険な状態だった」という事です。お酒を飲み、さらに反射神経が鈍くなる薬も飲んでいたのだとか。しかしその後、この説を否定するような証拠や証言が次々と出て来るのです。まず、唯ひとり助かったボディガードの男性は「バイクの他に1台の車が追いかけて来た」と証言。事故現場ではベンツの物ではない部品が発見され、さらに事故車の右前部分に別の車の塗装がついていたのです。この「謎の車」を、現場近くのホテルの窓から目撃した人もいました。塗装の分析から、謎の車がフィアットである事までは解りましたが、結局、該当車は発見できませんでした。また運転手も、ホテルの防犯カメラに映る姿では、とてもお酒を飲んでいるようには見えませんでした。こうした数多くの不可解な事実から、「ダイアナ元妃は暗殺された」という説が囁かれるようになるのです。

 
では、暗殺説が生まれた理由は何でしょう。提唱者が指摘するのは、ダイアナ元妃の婚約者アルファイド氏です。アルファイド家はイスラム教徒であり、ドディ氏とダイアナ元妃が結婚し子供が生まれれば、その子は将来のイギリス国王・ウィリアム王子とは異父兄弟になります。イギリス政府は、アルファイド家が将来、この血縁を利用してイギリスへの影響力を強めるのではないかと考えたのです。そこで諜報機関を使い、暗殺計画を実行したと言うのです。この説は一部の提唱者に留まらず、とくにイスラム圏のメディアが強く指摘するようになりました。2007年10月、ロンドン高等法院は事故究明の審問を開始。事故の再調査や関係者への審問をおこない、2008年3月、結局、最初のパリ警察と同じ「過失による交通事故」という結論を出しました。

 
ただ純粋に、幸せを願っていたひとりの女性。彼女は「イギリスの赤いバラ」とも呼ばれ、国民に広く愛された女性でした。イギリスの世論調査によれば、今もなお国民の8割以上が、何らかの陰謀により彼女は亡くなったと考えているそうです。

 
ときに2013年8月、この出来事に関する新たな情報が世界に伝えられました。イギリスの軍部が仕掛けた暗殺だったと、元軍人の義理の親が証言したのです。ロンドン警視庁もこの情報を確認していますが、事件の捜査はせず、あくまで証言の信ぴょう性を調べるだけだとか。可愛い初孫、ジョージ王子をその腕に抱くこともできなかったダイアナ元妃。何を胸に秘め、天国から現世を見下ろしているでしょうか。

2013年8月8日木曜日

「HAARP」の脅威と暴走


2005年8月、アメリカ南部に大災害を引き起こした大型ハリケーン「カトリーナ」は、人工的に作られた気象兵器だった…。同国テレビ局の天気キャスターの発言が、一時期、アメリカ国内を騒然とさせたそうです。「笑えない冗談だね」だけでは終わらず、政府まで巻き込んだ騒ぎになったのは、それなりの理由があったからです。

 
気象をコントロールできるほどの大規模なプロジェクトが、現実に国防省により進められていたのです。それが、高周波活性オーロラ調査プログラム、英語の頭文字で「HAARP(ハープ)」と呼ばれる計画です。地球の電離層に地上から強力な電磁波を放射し、人工的にオーロラを作り出す実験の事で、アラスカに巨大なアンテナ群が建造されています。国防省の公式見解によれば、ハープは大気の測定や石油・ガス・鉱物資源の調査を目的にしているそうです。つまり、人類の未来のための純粋で学術的なプロジェクトだと言うのです。

 
しかし、このハープに関しては恐るべき都市伝説が語られています。2004年12月26日に発生した、スマトラ島沖の大地震の原因がハープではないか…と言うのです。ここがM9以上の大地震は起きないとされた地域である事と、インド洋の島にあるアメリカ海軍の基地が、事前に情報を得ていたと言われる事が、都市伝説発生の要因になりました。これは、制御不能になったハープが限界以上の力を発揮してしまい発生した大災害だったと、陰謀説を信じる人々は主張します。ただ、これはあくまで都市伝説です。

しかし、アメリカ軍が実際に電磁波を兵器として使った事はあるようです。2003年のイラク戦争で、軍は強力な電磁波で電子部品をショートさせる「E―BOMB」という兵器を実戦使用しました。その結果、イラク国営テレビの放送が数時間途絶えたと言います。

 
ハープの暴走であれイラク戦争の作戦であれ、もちろんペンタゴンは完全否定です。それでも、地球規模から身近な家電製品まで、電磁波の脅威は確かに存在するのです。

2013年7月30日火曜日

聖なる杯の物語


それを手にした者には、永遠の命が約束されたり、再生や復活の奇跡が起きるといわれます。その存在や様々な奇跡は聖書に記されておらず、また、キリスト教徒の必須教養でもありません。しかし、2000年以上の長き歳月の中で語り継がれ、数多くの人々が探し求めた「聖杯」。その物語を聖杯伝説と言い、創作されたお話では、「アーサー王と円卓の騎士」がよく知られています。ただ今回は、現実のお話を語ります。それはまさに、最高の都市伝説というべき聖なる杯の物語です。

 
イエス・キリストが最後の晩餐でワインを注ぎ、十字架で息絶えた彼の血を受けたとされる杯。彼の弟子アリマタヤのヨセフにより、ブリタニア地方(現在のグレートブリテン島)に埋められたとされる杯の、現実的な行方が浮上したのは、1947年、エルサレム南東部の洞窟で膨大な数の古文書が発見されたときでした。その中に、西暦74年のローマ軍の攻撃直前、大量の財宝をエルサレムの神殿に埋めたという記述がありました。この作業には、イエスの周辺にいた人々も関わっていた可能性が高く、埋めた財宝の中に聖杯があったのでは…と考えられたのです。ただ、ローマ軍の破壊で神殿は跡形もなく崩れてしまいました。

 
エルサレム壊滅からおよそ1000年後。この場所で聖杯を探したのが、あのテンプル騎士団です。彼らは神殿跡地を発掘し、かなりの財宝を発見しますが、その中に聖杯があったという話が残されています。聖杯はスコットランドに運ばれ、エジンバラに建てた教会の地下に埋められます。この時期と、アーサー王の聖杯伝説の誕生が重なっており、それが偶然ではないと指摘する歴史学者もいるのです。ただし現在は、この教会の地下に「それらしき物」はありません。また、テンプル騎士団と深い関わりがあったキリスト教カタリ派の一部の者が、スコットランドに渡る前に聖杯を持ち逃げしたという説もあります。さらにこの時期から100年後、テンプル騎士団の子孫が大西洋を西へ向けて航海した記録があり、そのとき、聖杯が海を渡ってアメリカ大陸に持ち込まれたとも考えられています。

 
聖杯は、本当に存在するのでしょうか? 現在、「本物を所有している」と主張する団体が複数あるそうです。亡くなった人が生き返るような奇跡が、実際に確認されない限り、そのどれが真の聖杯なのかは永遠の謎です。聖杯には、手にした者に世界を支配する力を与えるという伝説もあり、それに惹かれて探した時の権力者もいました。この伝説が真実ならば、聖杯は永久に姿を隠し続けるかもしれませんね。

2013年7月23日火曜日

「ヨハネの黙示録」の予言は本当か?


肌の色、目の色、それに時代や文化の違いを問わず、ヒトは予言に惹かれますね。街角の占い師の言葉でさえ信じてしまうほどですから、それが聖書に書かれた予言となれば尚の事です。新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、例えば第8章に「苦よもぎ」という名の燃える大きな星が天から落ちてきて、地上の水が消え多くの人が亡くなると記されています。この「苦よもぎ」がロシア語ではチェルノブイリになるそうで、あの大事故を予言したと言われます。また、世界の終末には10本の角と7つの頭を持つ巨大な生き物が海から出現し、人類を滅亡させると記され、これが核兵器による最終戦争、いわゆる「ハルマゲドン」なのだそうです。都市伝説的には興味深いお話ですが、聖書を研究している学識者たちの見解によれば、ヨハネの黙示録に記された予言は現代の事ではありません。

 
まず、「ヨハネの黙示録」とはどのような文書なのでしょうか。これは一世紀末のころ、小アジアの西海岸に住むヨハネと名乗る人物が、自分の見た夢を記した文書だと言われます。この「ヨハネ」が、キリストの使徒ヨハネとは別の人物である事は、黙示録が書かれた時代の検証により明らかにされています。さらに、黙示録のヨハネが何者かは、エーゲ海の島にいたらしいという事以外まったく正体不明。つまりヨハネの黙示録とは、正体不明の人物が「わたしはこんな夢を見ました」と記した文書なのです。

 
当時のローマ帝国では、皇帝が神でした。イエスを絶対神とするキリスト教徒の立場は、想像に難くありませんね。ヨハネの黙示録に記された様々な予言は、こうしたキリスト教徒たちを励ますモノであり、「終末」とは、ローマ帝国の終りを示していたそうですよ。ある意味、かなり怪しげな文書であったにも関わらず、聖書の正典とされた原因がここにあると考える研究家も少なくありません。

 
「苦よもぎ」はチェルノブイリではないし、ましてや、海から出現する「666」と暗示された巨大な生き物がハルマゲドンを招くというお話は、完全な都市伝説なのです。

2013年7月18日木曜日

ミロのヴィーナスの腕のお話


「古代から現代に贈られた最高の美」と言われるミロのヴィーナス。ヘレニズム時代の最高傑作でもあるこの像が世に出たのは、1820年の事でした。エーゲ海南西部のミロス島で、ヨルゴスという名の男性が畑を整地している最中、岩を削った空間を見つけ、覆っていた土をさらに掘ると大理石の女性像が現れました。ヨルゴスから購入の話を受けたフランス領事館が本国に知らせ、二ヶ月後、ミロス島を訪れた専門家は、ひと目で超一級品と見抜き、買い取ってフランスに持ち帰ったのです。

 
ミロのヴィーナスの最大の謎として、数多くの研究者たちの興味を惹いたのが、発見当時から失われていた両腕です。はたして、どのような造形だったのか。少し前のめりで、左足を前に出す全体の姿を参考にして、著名な学者たちが様々な説を提唱しました。そんな中で近年になり浮上したのが、製作当初から両腕はなかったのではないか…という説です。

この像が人々を惹き付ける魅力のひとつに、「古代の黄金比」が多用されている事があります。黄金比とは、古代エジプトで発見された、縦と横の比率が1対1・6180…の割合です。最も均整がとれた美しい長方形で、ギザのピラミッド壁面の三角形の高さと底辺の幅、パルテノン神殿を正面から見たときの支柱の高さと建物の横幅などが、この黄金比になっているそうです。ミロのヴィーナスでも、体型や顔形にこの黄金比が使われており、それを守るため意図的に腕をつけなかったというのです。

 
確かに改めてこの像を見ると、左腕は肩から欠けていますが右腕は明らかに人工的に切り取られていますね。興味深い話ではあっても、ほかの説同様にあくまで仮説です。失われた腕が発見されない限り、真実は解明されないでしょう。

ちなみに、ミロのヴィーナスが海外で展示されたのは、現在までにたった一度だけです。それが日本である事実には、日本人としてはちょっと嬉しく感じてしまいます。

2013年7月12日金曜日

かなり怪しい「チャネリング」


「俺の悩みを聞いてくれるのは嬉しいけど、宇宙の偉大な生命体のメッセージが個人的な人生相談なんて…ちょっと変だよなぁ」。友人の言葉は、チャネリングの怪しさを見事に指摘しておりました。

 
チャネリングの実態は、昔からおこなわれていた霊媒の口寄せと同じようなモノです。ただ、霊媒師が亡くなった人の魂の言葉を代弁するのに対し、チャネラーは遠い宇宙の生命体やはるか過去の偉大な人物の言葉だとするので、真偽を確認できないのです。つまり、チャネラー本人がチャネリングできると信じているだけかもしれないし、そこに怪しさが見え隠れするのです。上記の人生相談だけではなく、人類へのメッセージも「受信」するそうですが、その内容は宗教に関する本を何冊か読めば誰にでも考えられるのだとか。

 
では、チャネリングの正体は何でしょうか。手持ち資料によれば、それはふたつあります。まずチャネラー本人の、一種の自己催眠により生じた人格変換現象です。トランス状態からまったく別の人物に変わり、「わたしは○○の時代からメッセージを送る○○だ」と、ときには女性が男性の声で告げるそうですよ。しかもそのほとんどは、催眠状態で現れる本人の潜在意識なのだとか。もうひとつの正体は、そうしたチャネラーの様子を見た依頼人に生じるハーロー効果です。「ハーロー効果」とは心理学が認める現象で、相手の顕著な特徴によりその言葉を信じてしまう事です。例えば、よく知られた大学の教授という肩書の人物が話せば、その内容が荒唐無稽でも「そうかもしれない」と思ってしまいますね。

 
ジュディス・Z・ナイトやエレーヌ・スミットなど、世界に名の知れたチャネラーがすべて怪しいとは申しません。しかし、彼女たちの力が本物だと証明できる術はなく、単に「直感力・観察力・洞察力が強いだけ」と指摘する者がいるのも事実です。現在のチャネリングの主流とされる「宇宙存在」が、それをテーマにした映画「2001年宇宙の旅」の公開前にはまったくなかったのも、また事実なのです。

現代科学を超越するテクノロジーや、今も解明できない歴史の謎の明確な答えが示されたとき初めて、チャネラーの力が立証されるのではないでしょうか。

2013年7月7日日曜日

シャーロック・ホームズに取り憑かれた俳優


映画が庶民の唯一の娯楽だった時代から、その銀幕を彩り続けた「シャーロック・ホームズ」は、イギリスを代表するエンターテイメントのひとつです。中でも1939年から7年間、14本が制作された映画でホームズを演じたバジル・ラズボーンは、ワトソンを演じたナイジェル・ブルースと共にこのエンターテイメントのキャラクターのイメージを定番化させました。そして、長らく続いた定番を変えた人物が、1980年代、グラナダTVのシリーズで主役を演じたジェレミー・ブレッドです。繊細で何事にも妥協しない性格、さらに役者としての完璧さを常に求めていた彼は、原作のホームズを最も忠実に演じきると期待されての抜擢でした。

 
しかし、彼の友人でホームズ役の先輩でもあったロバート・スティーヴンスは、オファーを断ったほうがいいとブレッドに告げています。「きみには無理だ。生活のすべてをホームズに乗っ取られてしまう」と。友人の心配とは裏腹に主役を引き受けたブレッドは、強い情熱と決意でホームズ役に挑みました。そして史上最高、史上最も原作に忠実で正確なシャーロック・ホームズを映像化しようという彼の思いは、自身の心と体を少しずつ変化させていったのです。ときには健全でないと周囲が感じるほどの努力は形となり、それまでのラズボーンのイメージが払拭され、シャーロック・ホームズ=ジェレミー・ブレッドというイメージが定着しました。ただし、その代償がいかに大きかったかは、シリーズの映像からも伺い知る事ができます。

 
「あの男の中に入り込むには、凄まじく深い淵に沈んでいかなくてはならない。そんな事をしたら、きみは自滅してしまうよ」。ブレッドに告げたスティーヴンスの言葉は現実となり、生活のすべてがホームズ一色になったブレッドは、1986年、そううつ病と診断されました。しかしもはや後戻りはできず、歳月が病状を悪化させます。薬の副作用で増え続ける体重が、シリーズの最初ではスリムだった体形を、迫力の二重顎に変化させました。心の病はさらに重く、ついには自宅近くの公園で、裸足のまま妄想上の誰かと会話する姿が目撃されるようになったのです。このころ、ブレッドは人生のパートナーであった女性に、こんな言葉を漏らしています。「本当に一生懸命、あいつを振り払おうとしているんだけど…どうも最近、ホームズに取り憑かれているようなんだ」。

 
シリーズの最後の方では、ブレッドは脚本を読むことも困難になり、さらにカメラの前にさえ立てなくなりました。そのため、マイクロフト役のチャールズ・グレイが代役を務めた作品もあったそうです。ワトソン役も含めて、このシリーズの俳優たちこそ「シャーロック・ホームズ」の決定版と絶賛されましたが、主役を演じたブレッドはそう思っていなかったようです。「僕にとっては、バジル・ラズボーンこそが誰かさんだ」。最後は、その名前すら口にしなくなったジェレミー・ブレッド。50分のエピソード36話と長編5本を撮影し、シリーズが終了した翌年の1995年、50代の若さで亡くなりました。

 
ひとりの俳優が、文字通り命を削りながら定着させたシャーロック・ホームズのイメージを、今、さらに変化させようとする者が出現しています。その俳優、現代版シャーロック・ホームズの主役を演じるベネディクト・カンバーバッチの言葉を、最後に記します。

「役と俳優の間に神秘的な結びつきがあるとは、僕は思わない。それにあまり拘りすぎると、演技というモノが変な迷信と結びついてしまう」。

「ブレッドの解釈は確かに素晴らしいけど、あれは彼だけの考え方であり続けるだろう。そうでなければ、シャーロック・ホームズではないモノになってしまう。ただ、僕はまだ若いし時間はたっぷりあるし…そのうちにおかしくなったりして…」。

2013年7月4日木曜日

これが写楽の真実


まず、例え話です。画家ではない素人の、ごく普通のサラリーマンAさんが趣味で描いた絵をコンテストに出品します。その極めて斬新な構図が人々を惹き付け、絵には大変な高値がつきました。Aさんは販売元の会社の依頼でさらに数点の絵を描き、それも高値で売れました。しかし、Aさんは絵を仕事にする気はなく、著作権を会社に譲渡、二度と描かなくなります。それでも絵の需要は高まる一方なので、会社は他の画家数人が描いた絵をAさんの作品として販売しました。自分の手持ち資料を読んだ限りでは、これが写楽の真実ではないかと、わたしは考えます。

 
東州斎写楽が何者で実在したのかを語るとき、参考になる史実がふたつあります。彼は僅か10か月で140点という驚異的なスピードで絵を描き、その後姿を消したこと。そして版元が、彼に関して何ひとつ語らなかったことです。写楽が何者かを、実在する人物の名前で最初に示したのは日本人ではありませんでした。それはドイツ人の美術研究家ユリウス・クルトで、1910年に阿波国の能役者・斉藤十郎兵衛だと主張したのです。ただ、阿波藩の資料にその名前はなく、信憑性が薄いとされました。ところが1993年、日本人の歴史研究家により「斉藤十郎兵衛」という能役者の実在が確認されました。上記の例え話でのAさんが、彼だったかもしれないのです。

 
さて浮世絵は、一点を仕上げるまでに大変な労力と長い時間がかかります。つまり、10か月の間に140点を描く事は、ひとりでは物理的に不可能だと考えられるのです。また、写楽の作品とされる浮世絵が、初期のそれと最後の方では構図の斬新さが薄れていくのです。こうした事から、最初の数点は斉藤十郎兵衛が描き、残りは版元が他の絵師に描いてもらい、「写楽」のブランドで売ったと考える研究者もいるのです。

 
はたして、これが真実なのでしょうか。実は2008年、写楽の肉筆と見られる絵画がギリシャの美術館で発見されたそうです。彼の実態が解明されるのか、あるいは新たな謎が生まれるのか…興味は尽きません。

2013年7月2日火曜日

エイリアン存在説の陰謀・後編


UFO関連の記事を書くために資料を調べるとき、いつも感じる疑問があります。「なぜ、アメリカなのか?」。様々な情報のほとんどの発信元が、世界中のたった一国なのは、実に不思議です。イギリスからも情報は出ますが、その規模はアメリカの比ではありませんね。ほかのヨーロッパ諸国や南半球の国々、ましてやアジアの国で、アブダクションとかキャトルミューティレーションの情報を得る事は極めて困難です。「陰謀論」の実態を知るカギは、どうやらこの辺りにあるようです。

 
近年、アメリカ国防省が軍事需要として注文する国内の企業は、約2万2000社あるそうです。さらにその下請け企業は約1万2000社、その会社に融資する数多くの金融機関、商品開発に携わる各種のシンクタンクなど。こうした軍事産業の利益で繋がる集団を、「軍産複合体」といいます。つまり、アメリカ国防省を頂点とする巨大な産業組織で、1960年代の東西冷戦時代に一気に拡大し、現在はアメリカという国の根幹を形成していると言われます。軍の計画やプロジェクトは、軍産複合体に多大な利益をもたらすワケで、外部の者たちに知られ事前に公表される事は、利益の消失に繋がるのです。これを何としても阻止すべく登場させたのが、「陰謀論」なのです。

 
1980年代、「地上円盤観測機構」という研究団体の代表者が、政府のUFO関連の文書を詳しく調べました。その結果、UFOの目撃は軍の基地や実験場の近くが多いこと、また、アメリカでUFO事件が多発するのは、政府が外交で苦労している時期と重なる事実を突き止めました。代表者は、政府や軍が国民の関心をそらす目的でUFO事件を仕組んでいると考え、その出現に歓喜するUFOマニアにこんな言葉を送っています。「何もないところでは、何も起きるはずがない」。こうした、いわば「知識の高い研究家」の動きに対しては、軍もそれなりに反応します。別の団体の代表者が軍の通信を傍受しているのに気付き、意図的に嘘の情報を電波に乗せました。それも、膨大な数の情報を。結果、代表者の言葉はほかの研究家たちに信用されなくなり、酷く落ち込んだ彼は自ら人生の幕を降ろしたそうです。

 
21世紀の現在。世界のあちこちで「UFOを見た」という報告は絶えませんが、陰謀論はすっかり過去のお話になりました。これは、アメリカに匹敵する軍事大国がない事に関係するのかもしれません。しかしロズウェル事件以後、一般の人々がその目と耳で確認した数多くの情報のすべてが、陰謀論による偽物だったとは限りません。ほんの僅かでも、「真実」が存在するかもしれない…UFO研究家たちは、それを探し続けているのです。例えグレイが陰謀論により作り出されたエイリアンであったとしても、別の姿の地球外知的生命体と彼らの宇宙船が、今も地球に実在すると信じる気持ちが、真実の「エイリアン存在説」を証明するかもしれないのです。

2013年7月1日月曜日

エイリアン存在説の陰謀・前編


まずは、「例えば」で語りを始めます。例えば、政府がUFOやエイリアンの情報を持っていたとして、様々な利害関係を理由にひたすら隠そうと決めます。しかし、国民はそれに気付き、情報の公開を強く求めます。こうした場合、政府はどのような策略をとるでしょうか。ひとつは情報の存在を否定し、政府も軍もそんな問題にはまったく関心がないように装います。そして第2の策としては、矛盾する情報や作り話を流し、どれが本当なのか分からなくして真実を隠す事です。

このような策略、つまり、何らかの機関や組織が意図的に情報操作し、UFOやエイリアンの存在を一般の人々から隠している、または、UFO情報自体が何らかの陰謀により作り出されたとする考えを「陰謀論」といいます。

ロズウェル事件以後現在まで、UFO研究家たちが強く主張するこの陰謀論。わたしなりに調べた実態を、2回の投稿に分けて語ります。

 
ロズウェル事件以後、アメリカの政府と軍はUFOやエイリアンの存在を否定してきました。とくに1968年、軍の公式UFO調査機関「プロジェクト・ブルーブック」を解散させた以後は、UFO関連の情報は一切収集していないと言い続けてきたのです。しかし、1974年に情報公開法が成立すると、政府の様々な機関が膨大な関連文書を保管していた事実が明らかになりました。収集を否定する一方で、情報の研究分析をおこなっていたのです。

 
軍がUFO情報を検証する最大の理由は、その存在が防衛上の脅威になるかを確かめるためです。現在までのところ、UFOが民間人を傷つけたり軍の基地を攻撃したりする事実が確認されないため、あくまで「未確認飛行物体」として捕捉するだけと説明しています。しかし、実際に情報を持っていたにも関わらず、それを否定し続けた軍のこうした発表を、UFO研究者たちはまったく信じませんでした。そこで、上記の第2の策略「情報混乱説」が生まれたのです。

 
UFO関連に少しでも興味のある方ならば、1995年に世界を騒がせた「エイリアン解剖フィルム」はご存知でしょう。あれがフェイク・ビデオだった事はすでに解明されていますが、製作に関わった人の中には、政府や軍に関係した者がいた事も解っています。あのビデオは、本物のエイリアンの存在を隠す目的で作られ、世界中に流された「陰謀論」の象徴だったのかもしれません。

 
さて次回は、陰謀論が存在するならば、政府や軍はなぜそうしなければならないのか、どうして真実を隠すのかを語りたいと思います。

2013年6月25日火曜日

黄金の国・ジパング伝説


「東の地には、ジパングという名の黄金の国がある」。このお話をヨーロッパに広げたのは、13世紀、イタリアの旅行家マルコ・ポーロがアジア諸国の旅で見たり聞いたりした事を、のちの幽閉生活で、同じ囚人の作家に口述記録してもらった旅行記「東方見聞録」です。ここに記されたジパングが日本である事は、長い間、当然の事実として考えられていました。しかし近年、東方見聞録が詳細に検証されるようになると、「ジパングは日本ではなかった」という説が浮上してきたのです。

 
まずは、「東方見聞録」の信憑性です。歴史研究家のフランシス・ウッドは著書の中でこう指摘しています。旅の記録であるはずが、自身の事を書いた記述が極端に少ない。また地理的な記述も旅した場所の連続性に欠け、地名も細かくない。イギリスの歴史家ヘンリー・ユールも、「マルコの述べた道筋がどうやってとれるのか解らない」という意見を記しています。日本では「東方見聞録」で知られるこの文書も、当初は「世界の記述」という書名であり、マルコが語ったオリジナルの手稿は早くに紛失してしまいました。同書は150種類もの写本から編集され、それは様々な時代・国・著者によって内容の差異が生じたと言われます。研究者の間で読まれるようになった「東方見聞録」は、マルコが旅した時代から250年も後の1553年、ジョヴァンニ・V・ラムージオなる人物が紹介した「ラムージオ版」なのです。

 
さて、そうした東方見聞録に記されたジパングは、「東の彼方、大陸から1500マイルの大洋にある」のです。1500マイルとは約2400キロで、どう考えても日本列島ではないようです。また、「ジパングの海域には7448個の島々がある」、「島々では香木、黒胡椒、白胡椒が豊富に採れる」とも記され、これらの記述から、赤道近くの東南アジアにジパングがあったと考える学識者が少なくないのです。しかも、詳細な検証が続く現在では、さらに具体的な地名まで提唱されており、ボルネオ島ではないかと言うのです。ボルネオ島は東方見聞録の記述のすべてに合致しませんが、少なくとも日本よりは現実味があるそうですよ。

 
黄金伝説は、世界各地で語られています。大航海時代の到来にも影響を及ぼしたと言われる、ひとりの旅行家の「旅記録」。それを手に大海原へ旅立った多くの冒険家たちは、結局、「東の彼方の黄金の国」は発見できませんでした。

2013年6月21日金曜日

空想の伝説・惑星クラリオン


1952年7月のある夜、車の修理工トルーマン・ベラサムは、ネバタ州内の国道を走っていました。すると突然、上空から眩しい光線が射し、円盤型のUFOが出現。そこから降りて来た女性の異星人()は、ベラサムにこう伝えました。自分はクラリオンという惑星から来た。惑星クラリオンは月の向こう側にあり、地球と月とクラリオンは一直線上にあるので、地球からは見えない…と。ベラサムはその後、女性異星人と何度も会い、彼女の語りを「空飛ぶ円盤の秘密」という本にしました。これが、UFO史上で「惑星クラリオン」が最初に登場したときのお話です。

 
次は1981年9月。イタリア人ジャーナリストのマリオッツォ・カヴァーロが、惑星クラリオンから来たという異星人に遭遇します。そのメッセージによれば、彼らは5億年前から文明を持ち、1億8000万年前に地球を訪れ、原始的な生物の遺伝子操作により人類を誕生させたそうです。ただしこのとき、惑星クラリオンは地球から15万光年の位置にあると言ったとか。月の向こう側にあったベラサムの時代から、またずいぶん離れてしまったものです。

 
異星人との遭遇を主張するコンタクティたちの怪しいところは、遭遇の仕方がほとんど同じである事です。UFOが出現し、その中から現れ、自分たちの星の話や地球の過去とか未来を語る…同じパターンの繰り返しです。これらはすべて、人類最初のコンタクティと言われるヒル夫妻の話と根本的に変わってないのです。それでもUFO信者たちに指示され、語り継がれる…まさに都市伝説の典型と言えるでしょう。しかし、「異星人がこう語った」と世間に公表するのならば、天文学の最低限の知識は身につけてほしいものです。

 
今回の惑星クラリオンにしても、1952年のベラサムは、その星から来た異星人の「宇宙から見た地球は月そっくりだ」とか「地球は光と影だけだ」という言葉を、著書に記しています。人類がまだ、大気圏の外へ出ていない時代だったので、単に地上の人間の空想に過ぎない事が、今ではよく解りますね。しかも、地球と月の一直線上の軌道にある惑星なんて、この時代でも、天文学のちょっとした知識があれば「物理的に有り得ない」と理解できるはずです。さらに呆れるのは、1981年のイタリア人ジャーナリストです。惑星クラリオンは15万光年離れた第三銀河のわし座にあると、大真面目に主張しました。星座というのは、地球から見える星の配置で誕生したモノであり、15万光年も彼方の銀河に星座などありましょうか。

 
惑星クラリオンは、完全な空想伝説としか言いようがありません。それでもまだ、この惑星の存在を信じる人や、ここからやって来た異星人とコンタクトしたと言う人がいるそうですよ。

2013年6月14日金曜日

宇宙人ユミットの笑える手紙


1960年代の初頭から、地球に潜入しているウンモ星人ユミットの手紙が、何人かのスペイン人に届くようになりました。手紙には、地球の科学をはるかに超える驚異的な理論が多数記されており、その通信は現在も続いているそうです。地球の科学を超えるならば、なぜ手紙なの? と、冒頭から言ってしまいますが、このお話は謎解き云々ではありません。「驚異的な科学理論」とは、高校生以上の科学の知識を持つ人ならば「笑える冗談」としか思えない始末なのです。例えば、超電導の機械の材質が「純度100パーセントのチタン」だそうですが、チタンは超電導に最も適さない物質なのです。また、人間のDNAにはクリプトン原子が含まれると記されていても、原子物理学的にクリプトンがDNAに含まれる事はなく、実際、検出もされていません。

 

手紙には、ウンモ語なるモノが多数書かれているそうです。例を挙げると、「われわれはウンモ星から来て、宇宙船は南フランスに着いた」をウンモ語にすれば、「DO UMMO DO DO UMMO UMMO DO DO DO」になると言います。これ、けっこう笑えると思いませんか? 何をどう翻訳すれば、どの「DO」が宇宙船でどの「DO」が南フランスになるのでしょう? ただ驚くべきは、この冗談みたいな手紙の記述をもとに、フランスの国立科学研究所の理学博士が著書を出している事実です。しかも彼は、パリ科学アカデミーで論文も発表しているのです。手元の資料によれば、前者の著書は「素人さん向け」、後者の論文は学界がすでに確認している事の繰り返しだそうです。

 

ウンモ星人ユミットなど、もちろん存在しません。その正体は何人かのスペイン人で、とくにホセ・ルイス・ペナという男性が、熱心に手紙を書き続けているそうですよ。正体どころか名前も知られているのに、まだ続ける…これもまた、笑えますね。

2013年6月10日月曜日

戦慄の吸血鬼伝説


最近のハリウッド映画で、派手なアクションを披露している一族は別にして、現代人が思い浮かべる吸血鬼のイメージは万国共通ですね。人間を襲い血を吸い尽くす。鏡に映らず、日光やニンニク、十字架、聖水を嫌い、その容姿は美しく不老不死。そして身分は高く、ほとんどが貴族階級の紳士とレディです。これはジョン・ポリドリの「吸血鬼」、シェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」といった、18世紀から西ヨーロッパで創作された文学や芝居などのエンターテイメントが生み出したイメージです。そのイメージを世界的に広げ、現代でも定番となるほど定着させた作品が、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ伯爵」でした。

 
このドラキュラ伯爵には、モデルとなった人物が実在したのはよく知られるお話ですね。15世紀、現在のルーマニア・トランシルバニアを治めていた公爵、ヴラド・ツェペシュです。「串刺し公」の異名を持つ惨忍極まる人物でしたが、彼のほかにもうひとり、血に執着し吸血鬼のモデルといわれた女性が実在しました。ハンガリーの名家に生まれたエリザベート・バートリです。彼女は、自分の美貌を保つには若い女性の血が効くと信じていました。城で働く女性や近隣の村の娘を大勢殺し、その血を風呂に満たし全身に浴びていたそうです。「血の伯爵夫人」と呼ばれ、居城からは600体もの女性の遺体が発見されたといいます。

 
吸血鬼伝説はこうしたエンターテイメントとは別に、実際の事件から語り継がれるようになった「純粋な伝説」があります。ある意味、こちらが本物の吸血鬼伝説といえるでしょう。1725年、ヨーロッパのある村で、亡くなった男性が埋葬されてから10週間後に生き返り、村人を襲ったのです。彼のお墓を掘り返えしてみれば、棺の中の姿は生前のまま、口の周りには鮮血がついていたといいます。この逸話が吸血鬼像の形成に影響を与え、ヨーロッパでは、亡くなった人が吸血鬼になると考えられるようになりました。ただ現実には、密閉された棺の中で生前の姿を保つ事はあり得るのです。1314年に亡くなったある国の王さまは、500年余りが過ぎて移葬のため棺を開けたところ、生前の面影をとどめていたそうです。また医学が現在ほど発達していなかった中世では、可死状態のまま埋葬してしまい、蘇生した本人の声や棺を叩く音が墓地に響いたこともありました。その恐怖が、吸血鬼伝説を生んだのです。

 
太古の時代から、血液は生命力の象徴として崇められてきました。その血で、永遠の命を繋ぐ吸血鬼。暗闇に潜み、自らの運命を悲しみ、そして倒錯した愛を求める姿が醸し出す独特のエロスは、現代人を強く惹き付けます。アメリカのある超心理学者は吸血鬼研究を続けており、実際に439歳の吸血鬼と自称する女性に会ったそうですよ。その言葉の信憑性は別問題としても、21世紀の現代社会の中に、自分は吸血鬼だと信じる人々が存在しているのです。

2013年6月9日日曜日

アメリカン・モンスター「ウサギと猫」


アメリカには、モンスターがお好きな人々が多いようです。そんなお国柄が生み出した怖い怪物をふたつ、今回は紹介します。

 

まずは、バージニア州フェアファッスのクリフトン周辺に出没するといわれる「バニー・マン」です。ハロウィンの時期に現れるモンスターで、その誕生は100年ほど前のある事件でした。クリフトンには異常犯罪者を収容する刑務所がありましたが、1904年の秋、閉鎖されることになりました。そこで、同じ州内にあるロートン刑務所に囚人たちを移します。しかし、彼らの護送中にバスが事故を起こし、その騒ぎに紛れて何人かの囚人が脱走しました。警察の強力な捜査網をかいくぐり逃げ延びたのが、ダグラス・J・グリフォンでした。彼の逃走後、この地域では木の枝にぶら下がるウサギの死骸があちこちで発見されます。地元の住民は恐怖に震えましたが、警察はグリフォンが州外に逃げたと判断。捜索を打ち切ります。人々は安心し、逃走犯の噂も消えかけた翌年、恐るべき事件が発生しました。この地域のトンネル内で、3人の子供の命が奪われたのです。しかも、トンネルの天井からぶら下がった姿は、あのウサギそのものだったといいます。以後、ハロウィンの時期になると「バニー・マンに襲われた」という報告が相次ぎ、トンネルには「バニーマン・ブリッジ」なる別名がついたのです。現在では、この場所で「バニー・マン」と3回言えればモンスターが現れるなんてお話にまで派生しております。

 

さて次のモンスターは、ノースカロライナ州の小さな町ブラデンボロの住民を、恐怖のどん底に落した「ヴァンパイア・キャット」です。事の始まりは1954年1月。この町のある家で飼われていた3匹の犬が、頭を噛み砕かれた姿で発見された事件です。以後立て続けに、この地域一帯のペットや家畜が全身を鋭い牙で噛まれ殺される事件が起きます。しかもそのほとんどは、血を全部吸い取られていたというのです。住民の恐怖はハンパではなく、女性や子供は昼夜を問わず外出せず、男性も銃を身につけなければ外に出られませんでした。多くの人の目撃証言により、事件の「犯人像」が明らかになります。体長1・5メートル、尾は1メートルほどの巨大な生物で、その動きや鳴き声は猫そのものでした。また発見された足跡から推測される体重は、なんと70キロ以上という、ライオンやトラも超える大きさで、「ヴァンパイア・キャット」と呼ばれるようになります。当局は、かなり大きな山猫と断定。実際、全米から集まったハンターたちの手で、巨大な山猫が捕獲されました。以後、ペットや家畜の被害はなくなりましたが、はたして、本当にそれがヴァンパイア・キャットだったのでしょうか。ブラデンボロでは、今もこの恐怖のモンスター伝説が語り継がれているそうです。

2013年6月8日土曜日

平家落人伝説の真実


1185年3月24日、「源平合戦」の最後の舞台・壇ノ浦の戦いに敗れた平家。その残党は落武者となって全国に散り、日本各地の山間部に隠れ住んで子孫を残しました。これが、世に語られる「平家落人伝説」です。この伝説は、北は三陸地方から南は奄美大島に至るまで約150か所の山間の集落にあり、とくに壇ノ浦に近い九州や四国、中国地方に多く語られます。壇ノ浦での平家の兵力は、船500隻とも1000隻ともいわれた大軍だったので、実際に逃げ延びた武士が中にはいた可能性はあります。しかし、彼らは源氏の追撃を逃れるため、その身分や素性を徹底的に隠したはずであり、史実として裏付けされる落人伝説はほとんどないといわれます。

 
平家落人伝説が全国各地に残るのは、「平家物語」が集落の存続のため活用された事に由来すると考えられています。つまり、「自分たちは平家の末裔なのだから、団結してその血筋を守っていこう」という意識づけです。その象徴的な場所が、岐阜県の白川郷です。現在は世界遺産としてよく知られた集落ですが、その前は文字通りの「陸の孤島」でした。それでも、独自の伝統を守り続けることができたのは、平家落人伝説により村人たちの結束が強まったからだそうです。

 
こうした各地の平家落人伝説の内容は、「村民全員の祖先が平家ゆかりの一族と信じられている」、「安徳天皇が隠れ住んだ里といわれる」、「平家一門の家系が存続しているとされる」の三つに大別できるようです。このうち三つ目には、史実と一致する本物の落人伝説と思われるケースがあります。石川県内にある時国(ときくに)家です。その祖先は大納言・平時忠(たいらのときただ)の五男、時国であり、この一族は身内を源氏に嫁がせることで免罪となり、能登に流されました。これは史実として「吾妻鏡」に記されていて、時国家の家史とも一致するそうです。そのため、時国家の落人伝説は真実と見る歴史家が多いのです。

 
それにしてもいにしえの時代、山深い場所を開拓し村を作ったのは誰だったのでしょうか。それは戦乱の世で大量に発生した落武者たちであり、厳しい環境を生き抜くため、「武士のブランド」ともいえる平家の子孫であることを信じ結束したと考えられています。その想いは次の世代へと受け継がれ、そして現在でも平家落人伝説として語られるのです。

2013年6月6日木曜日

平安サクセス・ストーリー「わらしべ長者」


転んだとき偶然手にした一本のワラが、最後には大きなお屋敷になります。そのダイナミックな展開と、ひとりの貧しい男性が幸福への階段を登って行くサクセス・ストーリーが語られる「わらしべ長者」。原型は「今昔物語」に記されており、「貧しくても、心が優しく豊かならば幸せになれる」という説話です。しかしその内容は、当時の経済状況や主人公の稀に見る「投機的才能」が読み取れる、実に奥深い物語なのです。

 

まずは、物語を簡単に紹介します。長谷寺に寝泊まりしていたひとりの男性は、ある夜、夢に現れた僧侶にこう告げられます。「寺を出るとき最初に手に触れた物を、大切に持って行きなさい」。翌朝、お寺の階段でつまづき転んで、地面に落ちていた一本のワラが手に触れました。男性はお告げを守り、ワラを持って旅に出ます。旅の途中で様々な人に出会い、ワラがみかんに、みかんが布に、そして布が馬にと変わっていき、最後は大きな屋敷の主に馬を譲ります。その馬で旅に出た主が戻らなかったため、男性は屋敷で幸せに暮らしたのです。

 

「今昔物語」は平安末期の書です。この時代の日本は、まだ貨幣価値が広く浸透しておらず、経済は物と物を交換するという価値観で成り立っていました。「わらしべ長者」の主人公は、夢のお告げの大切なワラを欲しいと言われて譲ったり、喉の渇きに苦しむ女性にみかんを差し出したりと、その優しさが随所に表れています。しかし、物語を詳しく読み解けば、お告げがあるまで観音堂に居座り続ける根性や、布と馬の交換のときも、三反の布のうち二反は手元に残すという「計算高さ」がありました。また馬も、それを受け取ってもらえそうな資金力のある人物に狙いを定めて交渉します。彼は平安時代の交換経済において、とても優秀な投機の才能を持っていたワケです。

 

わらしべ長者は、長谷寺の観音菩薩のご利益と、主人公の才覚で実現した平安サクセス・ストーリーと言えるでしょう。

2013年6月1日土曜日

エル・ドラドの黄金伝説


中世の大航海時代、海の彼方を目指した探検家たちの話として、黄金の都の伝説がヨーロッパに広がりました。その呼び名「エル・ドラド」とは、元はアンデス山脈北側の高地に住むムイスカ族の首長の事です。「金粉を塗る人」という意味のスペイン語であり、新しい首長が、就任の儀式で全身に金粉を塗り、聖なる湖に飛び込んで金粉を洗い流した事に由来します。その際、部族の人々はエメラルドや金の装飾品を湖に投げ込み、首長の就任を祝いました。これがやがて、「インカ帝国の北側に黄金の地がある」という伝説に変わったのです。

 

ムイスカ族が住んでいた場所は、現在のコロンビアの首都ボゴタ周辺と言われています。ただ16世紀ではそれさえはっきり判っておらず、古い地図にはエル・ドラドがあちこちに記されていたそうです。その不確定な地図を頼りに、数多くの探検家たちが黄金の都を目指しましたが、結果は酷いものでした。例えばドイツの総督ゲオルグ・ホエルムートは、1535年に400人の遠征隊を率いてエル・ドラドに向かいました。伝説の湖とされるグアタビータ湖の近くまで行きましたが、そのときの隊員は100人余り。気力も体力も、そして資金も底をついて国に引き返したそうです。その翌年に挑戦した同じくドイツ人の探検家ニコラス・フェーダーマンはさらに酷く、約1000人の遠征隊がムイスカ族の村に到着したときは90人にまで減っていました。現地の激しい気候や自然、マラリアなどの伝染病が、彼らの行く手を遮ったのです。

 

結局、ヨーロッパ人には発見できず、伝説だけが語り継がれた「エル・ドラド」。ムイスカ族は、本当に黄金の民だったのでしょうか。ボゴタ周辺に鉱山はありますが、金鉱は存在しない事が現在では解っています。ただ、ホエルムートやフェーダーマンがムイスカの村で大量の金の装飾品を見たのは事実です。これは、ムイスカ族の人々が交易で入手した金を細工して作った物でした。また1545年、エルナン・ペレスという人物が、グアタビータ湖の水をバケツで汲み上げるという人海戦術を展開し、3ヶ月かけて水位を下げ、湖に沈む数百個の金製品を回収しました。その40年後にも、スペインの商人が排水用のトンネルを掘り、金製品やエメラルドをたくさん回収したそうです。ただ、土砂崩れで計画は中断。20世紀になり、イギリスの企業がトンネル方式で再挑戦するも、やはり激しい土砂崩れと湖底の泥の硬さで断念しました。

 

黄金の都ではありませんが、アンデス山脈北側の小さな湖に、大量の黄金が眠っているのは事実です。ただしそこは、女神が宿る聖なる場所であり、その湖底に沈む物も、儀式で捧げられた聖なる品物です。お金に換算する価値観しかない人にとっては、まさに「永遠の伝説」であり続けるでしょう。

2013年5月31日金曜日

いのちと宇宙の物語


現在、約500万種類が存在すると言われる、地球の多種多様な生き物たち。そのすべての始まり、「最初のいのち」は、どこでどのように誕生したのでしょう。それは偶然の奇跡なのか。あるいは、意図的な計画だったのか。いずれにしても、気が遠くなるほど壮大な物語です。今回のお話は、心の視野をいつもより少し広げて読んで頂ければ、それなりに楽しいのでは…と思います。

 

現在確認されている世界最古の生物化石は、約35億年前の物です。そのため、地球に最初の「いのち」が誕生したのは、およそ40億年前と考えられているそうです。太陽から3番目の位置に、地球という名の惑星が生まれたのが45億年前。その原始の地球の大気に含まれていた水や二酸化炭素などが、紫外線、カミナリ、宇宙線といったエネルギーを受けて化学反応し、アミノ酸や核酸が合成されました。地球誕生から5億年の間に、この合成物が海に溶け込みタンパク質となり、「いのち」の元が生まれます。それが、姿ある生物に進化していったというのが、最も有力な説です。

 

しかし最近、世界最速のコンピュータでシミュレーションしたところ、数億年で生命が誕生するのは不可能という答えが出ました。そこで浮上したのが、地球の生命の源は宇宙から来たという説です。1986年におこなわれたハレー彗星の調査では、彗星の核から大量の有機物が発見されています。また、アミノ酸が発見された隕石もあります。さらに2001年、オーストラリアで回収された「マーチン隕石」からは糖やアルコール化合物が検出されたのです。アミノ酸はもちろん、とくに糖の発見は「いのちの宇宙飛来説」をかなり現実的な説にしました。

 

都市伝説っぽいお話では、地球の生命は異星人によって作られたという説もあります。はるか昔、高度な文明を持つ異星人が遺伝子情報を入れた膨大な数のカプセルを宇宙空間に放出し、そのひとつが地球に辿りついたと言うのです。つまり、原始の生命が生まれて進化し、人類が誕生して現在に至るまでは、異星人の「プロジェクト」なのだそうですよ。凄いお話ですが、これを大真面目に()提唱する人もいるのです。

 

「最初のいのち」は、地球の大気の化学反応で生まれたのか。それとも宇宙から飛来した糖やアミノ酸なのか。わたしたちがこの惑星で営むいのちの物語の幕開けは、現在も科学がその解明への挑戦を続けています。

2013年5月18日土曜日

王妃マリー・アントワネット最期の一日


「もう何も見えず、歩くことができません」。1793年10月16日午前3時ごろ、革命裁判所で判決を受けたフランス国王妃が、裁判所の出口でよろめき呟いた言葉です。牢獄に戻された彼女は、夫ルイ16世の妹エリザベト宛に遺言書を書きました。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきことです。しかし、無実の罪で断頭台に送られるわたしには、恥ずべきことは何ひとつありません。子供たちには、母の無念をはらそうなどと決して思わぬよう、そして愛しているとお伝えください。さようなら」。

 

運命の朝、食事係が朝食のメニューの希望を尋ねますが、アントワネットは「何もいりません。すべて終わりました」と小声で答えたのです。午前10時少し過ぎ、死刑執行人が牢獄を訪れ、彼女自慢の艶やかなロングヘアを短く切りました。それでもアントワネットは、涙のカケラも見せず背筋を伸ばして立っていたといいます。革命広場の刑場に向かう荷馬車に乗った彼女が纏うのは、真っ白いドレスと真っ白い帽子。自分の身の潔白を、最後の瞬間まで主張する強く気高い意思の表れでした。広場に到着すると、アントワネットは自ら荷馬車を降りて処刑台の階段を上ります。そして12時15分、「共和国万歳!」と叫ぶ数万人の民衆の声に包まれ、彼女の人生の幕が降りました。

 

フランス国内で革命の火の手が上がり始めたころ、「ひとカケラのパンを!」と声を上げる民衆を見たアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った逸話があります。これは、完全な作り話だったと現在では考えられています。当時の国の財政破綻は、戦費の拡大やアメリカへの多額の投資の焦げ付き、農業だけに頼っていた財源など様々な要因が重なって起きた事態でした。しかし、王政の打倒を目論む革命家たちは、そんな複雑な説明では民衆に理解できないと考えたのです。だから、民衆の負の感情をひとつに集中させることで、大きな波を起こそうとしました。その「的」が、フランス国王妃だったのです。

 

ヨーロッパ随一の名門オーストリア王家に生まれ、最後の瞬間まで誇りとプライドを貫いたひとりの女性。その想いと母の愛を綴った遺言書が、娘のマリー・テレーズの手に渡ったのは、処刑から23年後の1816年でした。

2013年4月6日土曜日

王道都市伝説「ピアス穴の白い糸」


このお話を聞いた覚えのある方は、多いのではないでしょうか。「口裂け女」と並び、その時代の一世を風靡した都市伝説です。

ピアスの穴を開けたいけど、お医者さんへ行く時間も費用も節約しようと考えた女性が、自分で耳たぶに安全ピンを刺します。しばらくして、その開けた穴から白い糸のようなモノが出てきて、それは引っ張ってもなかなか切れません。別に痛みもなかったので、さらに力をこめて引っ張ると突然切れ、同時に目の前が真っ暗になり、彼女は視力を失いました。

 

白い糸のようなモノは、視神経だったというオチなのですが、実際には耳たぶに視神経は通っていません。ピアスの穴と金属の間に溜まったシャンプーが固まったモノとか、耳たぶの脂肪分などが時間の経過で白い糸のようになり出ている事があるそうです。それでも、ピアスという身近なアイテムと、自分で自分の耳に穴をあける行為が招いた怖い結末が、完成度の高い都市伝説を生みだしました。派生バージョンでは、糸が切れる瞬間に眼球が一回転したなんてお話もあります。また、街中ですれ違う人に「ピアスしている?」と聞く女性がいて、「している」と答えると彼女はその人の耳たぶに噛みつくそうですよ。これが、糸を引っ張ったあげくに視力を失った女性だという都市伝説です。

 

「ピアス穴の白い糸」が広く語られたのは、1980年代です。美しくなるための美容整形が、まだ理解されていない時代背景があったのでしょうか。ご年配の方々に、「親からもらった体に…」などと言われ生まれた少し後ろめたい気持ちが、このお話を単なるウワサに終わらせなかったのでしょう。都市伝説の多くは、その本場アメリカから日本へ渡って来ますが、「ピアス穴の白い糸」は日本からアメリカへ伝わった数少ないお話のひとつなのです。

2013年2月8日金曜日

都市伝説「海とタコと女性」


アメリカでは、こんな都市伝説が語られています。ロサンゼルスに住む10代後半の女性は、夏休みの間、毎日海岸へ遊びに行っていました。新学期が始まるころ、彼女は体調を崩します。体がだるく、食事もあまり喉を通らず、食べてもすぐに出してしまいます。その様子を見た両親は、夏休み中の、いわゆる「若さの勢い」が招いた事態ではないかと心配しました。しかし女性は、「親に言えない事は絶対していない」と強く否定します。実際、病院で受けた検査でもそれらしき兆候はありませんでした。ただ、月を重ねるごとに女性のお腹が膨れていきます。そこでレントゲン検査してみると、女性の子宮に大きな腫瘍のようなモノが写りました。すぐに、摘出手術です。そこで、医師たちは我が目を疑いました。腫瘍のように見えたのは、かなり大きなタコだったのです。

 

海を漂っていたタコの卵が、女性の体の中に入り成長したというこの都市伝説。日本で語られる「フジツボびっしり」によく似ています。アメリカの「海とタコと女性」は、1934年に誕生し西海岸で広く語られていたお話が、1948年に発刊された本に掲載されたちまち全国に広がりました。ただこのお話は、海で泳いでいた女性の口からタコの卵が入り、腸で成長する内容でしたが、これでは胃液で消化されてしまうと思われたようですね。そこで、「別の部分」から入るお話に派生したようです。

 

それにしても、人間の子宮でタコの赤ちゃんが成長するかなぁ…と考えれば、膝のお皿でフジツボが広がる日本の都市伝説の方が現実味ありますね。いずれにせよ、都市伝説独特の不気味さを味わえるお話ではあります。

2013年2月3日日曜日

「源氏物語」の謎あれこれ


平安時代に書かれた、日本の古典文学の傑作「源氏物語」。日本人に広く知られるこの作品は、現在でも解明されない多くの謎を秘めています。今回はその、「源氏物語」の謎を語ります。

 

この作品が世に出たのは、西暦1000年ごろというのが一般的だそうです。しかし、それも定かではないとか。作者とされる紫式部が記した、いわゆるオリジナル原稿は現存していないからです。現在、わたしたちが目にする源氏物語は、鎌倉時代に複数の人物によってまとめられた写本が原本になっているのです。しかもそれは、オリジナルを正確に書き写した物ではなく、当時、幾つか伝わっていた物語を整理した内容であり、当初の「源氏物語」がどのような内容だったかはほとんど解っていないそうです。

 

さらに謎なのが、作者の紫式部。いつ生まれ、いつ亡くなったのか、その本名、そして実在すらも疑う研究者がいるのです。「源氏物語」の作者に関しては様々な説があり、全54巻のうち、幾つかの巻をそれぞれ別人が書いたとする複数説や、実はほとんどが紫式部の父親の作品で、娘がそれを引き継いだという親子共作説があります。中でもわたしの興味を惹いたのが、歴史作家・藤本泉氏の男性作者説です。つまり、紫式部は男性だったかもしれないという、実に大胆な説なのです。藤本氏はその根拠として、「源氏物語」での描写を挙げています。紫式部には、娘がひとりいたとされています。なので、生後50日の赤ちゃんが笑ったり、7か月で歩くなどの描写は、子供を産み育てた経験のある女性では有り得ないと言うのです。そして、物語に登場する光源氏こそ、作者が自身を投影させたキャラクターであり、その人物は醍醐天皇の子・源高明(みなもとのたかあきら)だと主張しています。高明と光源氏の身上がとてもよく似ている事や、物語に描かれる宮中での行事を、実際に高明は「西宮記(さいきゅうき)」という記録書に残している事などが、この主張の根拠だそうです。

 

「源氏物語」のオリジナルは、どのようなお話だったのか。作者はひとりの女性で実在したのか。この謎は、もはや永遠に解明されないかもしれません。

2013年1月28日月曜日

霊の顔が現れた場所は…?


周りの環境や、交通の利便性などの条件がとてもいいのに、家賃が異常に安いアパート。こうした物件は、ほとんどの人が「何かある」と思いますね。そして、「きっと出るんだ」なんて考えます。夜中に女性の泣き声が聞こえたり、壁に幽霊の姿が浮き上がったり…。怖いお話ではあっても、めずらしくはありません。ただ、今回語るお話は、少し変わったケースかもしれませんよ。

 

ある都市伝説の本の著者が、友人の体験談として記したお話です。著者N氏の友人でデザイナーのS氏は、幽霊とか超常現象をまったく信じない男性でした。条件は最高でも家賃がとても安いアパートの一室を、「仕事場に近い」という理由だけで借りました。「やめた方がいい」と言うN氏の言葉にも、「俺はそういうの信じないから」と笑っていたそうです。

 

その部屋で暮らし始めてまもなく、S氏は金属アレルギーになりました。それまで、そんな事は一度もなかったのに、腕時計の金属ベルトの部分が異様に痒くなったのです。痒みに耐えられず掻き壊してしまい、やがて手首の掻き傷がかさふたに変わりました。その赤黒いかさふたが、なんと女性の顔のようだったと言うのです。目鼻や口ははっきりと、しかも目の部分から滲み出る血はまさに涙。薬を塗っても、すぐにまたこの形が浮き出るというS氏の話に、N氏は寒気がしたそうです。

 

数日後、S氏はついに「伝説」を体験します。突然、女性のすすり泣きが聞こえ、部屋の壁に彼女の姿が現れたのです。翌朝、近所のおばさんから「あの部屋では、女性がふたりも亡くなったのよ」と聞かされ、さすがに怖くなって引っ越しました。壁より先に、住人の手首に現れた女性の霊。おばさんの情報によれば、亡くなったひとりはその部分を切ったそうで、本当に怖いお話でした。

2013年1月25日金曜日

かなり怖いぞ「マイアミ・ゾンビ」


今回のお話は、料理に例えるならば相当濃い味付けです。激辛とは申しませんが、決して優しい味付けではないので、ご了解のほどを…。

 

2012年5月26日、アメリカ・フロリダ州マイアミのある公園内で、ひと休みしていた68歳の男性ロバート・ポッポ氏は、突然、まったく面識のない31歳の男性R・Uに噛みつかれました。R・Uはポッポ氏の顔を噛み続け、駆け付けた警察官がやむなく発砲します。なんと12発の弾を受け、その間18分、そしてようやく事切れたのです。幸いにもポッポ氏は一命を取り留めましたが、顔面は原型を留めず、資料に写真があってもとても掲載できるモノではありません。恐るべきは、このR・Uのような事件がさらに続いた事です。

 

5月29日、コロラド州で21歳の大学生が逮捕されたときは、命を奪った友人の体の一部を食べていました。また6月2日には、マイアミで20歳の男性が、「食べてやる」と大声を上げ警察官に噛みつきました。12日のニューヨーク州では、極めて温厚で優しい35歳の女性が、突然、近所の人々に襲い掛かっています。愛犬に噛みつき、吠えながらその体を食べたのはテキサス州の中年男性。6月14日に起きた事件で、彼もまた温厚な人物でした。7月2日にジョージア州のゴルフ場で発生したのは、若い男性が「みんな、食べてやる」と言いながらゴルフクラブを振り回し、人々を追いかけた事件です。このとき、警察官は暴れる男性を抑えるため、高圧電流を放つ道具を使いましたが、普通の人間ならば一回で気を失うはずが、なんと、7回使ってようやく取り押さえたそうです。

 

これらの事件の共通点は、いずれも突発的に人や動物に襲い掛かり、噛みついたり実際に食べたりすること。そして銃弾や高圧電流を受けても、感覚がマヒしているかのように恐ろしい行動を続けたことです。まさにゾンビそのもので、事件の主役たちは、最初の場所から名前を取った「マイアミ・ゾンビ」と呼ばれるようになりました。マスコミは、事件の原因を「バス・ソルト」と言う脱法ドラッグではないかと指摘しました。ところが、警察が発表したゾンビたちの血液検査の結果は、驚くべきモノでした。全員から、大麻の成分が検出されたと言うのです。

 

大麻は、紀元前から世界中で使われてきたクスリです。幸せ気分になり、食欲が増進され、ときには精神疾患も発生しますが、決して「マイアミ・ゾンビ」は生み出しません。「アルコールやタバコより有害ではない」と言う説さえあり、合法化している国もあるのです。そこで、都市伝説が誕生しました。マイアミ・ゾンビの原因は、アトランタにあるアメリカ疾病予防センターが作り上げた細菌兵器ではないか…と。

 

実はゾンビ事件が続いていた間、マイアミでは軍の危険物取扱いチームが出動する不可思議な事件が10件起きていました。さらにゾンビ事件発生の1か月前、疾病予防センターが関連組織に対し「ゾンビに対する備えをしてください」という通達を出していたとか。これらが、都市伝説誕生の要因になったのです。

およそ2ヶ月、アメリカ市民を震え上がらせた「マイアミ・ゾンビ事件」。その後は発生していないようですが、警察の捜査も大して進展しておらず、事件の真相は謎のままだそうです。つまり、いつ再発してもおかしくない状態であり、これは実に恐ろしいですね。