2013年7月7日日曜日

シャーロック・ホームズに取り憑かれた俳優


映画が庶民の唯一の娯楽だった時代から、その銀幕を彩り続けた「シャーロック・ホームズ」は、イギリスを代表するエンターテイメントのひとつです。中でも1939年から7年間、14本が制作された映画でホームズを演じたバジル・ラズボーンは、ワトソンを演じたナイジェル・ブルースと共にこのエンターテイメントのキャラクターのイメージを定番化させました。そして、長らく続いた定番を変えた人物が、1980年代、グラナダTVのシリーズで主役を演じたジェレミー・ブレッドです。繊細で何事にも妥協しない性格、さらに役者としての完璧さを常に求めていた彼は、原作のホームズを最も忠実に演じきると期待されての抜擢でした。

 
しかし、彼の友人でホームズ役の先輩でもあったロバート・スティーヴンスは、オファーを断ったほうがいいとブレッドに告げています。「きみには無理だ。生活のすべてをホームズに乗っ取られてしまう」と。友人の心配とは裏腹に主役を引き受けたブレッドは、強い情熱と決意でホームズ役に挑みました。そして史上最高、史上最も原作に忠実で正確なシャーロック・ホームズを映像化しようという彼の思いは、自身の心と体を少しずつ変化させていったのです。ときには健全でないと周囲が感じるほどの努力は形となり、それまでのラズボーンのイメージが払拭され、シャーロック・ホームズ=ジェレミー・ブレッドというイメージが定着しました。ただし、その代償がいかに大きかったかは、シリーズの映像からも伺い知る事ができます。

 
「あの男の中に入り込むには、凄まじく深い淵に沈んでいかなくてはならない。そんな事をしたら、きみは自滅してしまうよ」。ブレッドに告げたスティーヴンスの言葉は現実となり、生活のすべてがホームズ一色になったブレッドは、1986年、そううつ病と診断されました。しかしもはや後戻りはできず、歳月が病状を悪化させます。薬の副作用で増え続ける体重が、シリーズの最初ではスリムだった体形を、迫力の二重顎に変化させました。心の病はさらに重く、ついには自宅近くの公園で、裸足のまま妄想上の誰かと会話する姿が目撃されるようになったのです。このころ、ブレッドは人生のパートナーであった女性に、こんな言葉を漏らしています。「本当に一生懸命、あいつを振り払おうとしているんだけど…どうも最近、ホームズに取り憑かれているようなんだ」。

 
シリーズの最後の方では、ブレッドは脚本を読むことも困難になり、さらにカメラの前にさえ立てなくなりました。そのため、マイクロフト役のチャールズ・グレイが代役を務めた作品もあったそうです。ワトソン役も含めて、このシリーズの俳優たちこそ「シャーロック・ホームズ」の決定版と絶賛されましたが、主役を演じたブレッドはそう思っていなかったようです。「僕にとっては、バジル・ラズボーンこそが誰かさんだ」。最後は、その名前すら口にしなくなったジェレミー・ブレッド。50分のエピソード36話と長編5本を撮影し、シリーズが終了した翌年の1995年、50代の若さで亡くなりました。

 
ひとりの俳優が、文字通り命を削りながら定着させたシャーロック・ホームズのイメージを、今、さらに変化させようとする者が出現しています。その俳優、現代版シャーロック・ホームズの主役を演じるベネディクト・カンバーバッチの言葉を、最後に記します。

「役と俳優の間に神秘的な結びつきがあるとは、僕は思わない。それにあまり拘りすぎると、演技というモノが変な迷信と結びついてしまう」。

「ブレッドの解釈は確かに素晴らしいけど、あれは彼だけの考え方であり続けるだろう。そうでなければ、シャーロック・ホームズではないモノになってしまう。ただ、僕はまだ若いし時間はたっぷりあるし…そのうちにおかしくなったりして…」。

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