安土桃山時代、大盗賊の名を天下に轟かせたと言われる石川五右衛門。壮絶な最期が広く知られる一方、出生はもちろん本名や人生はまったく不明の、謎に包まれた人物です。処刑されたときが36歳ともいわれ、これが正しければ西暦1558年生まれですが、資料・文献で確認することはできません。伊賀の忍者、浜松の武士、あるいは丹後国の領主の家臣と様々に語られる身分は、江戸時代に生まれた伝説だといわれます。
ただし架空の人物ではなく、実在したのは確かです。「釜ゆで」の刑に処せられた記述が、この時代の文献の幾つかに記されているからです。例えば、公家の山科言経(やましなときつね)の日記「言経卿記」の、1594年8月24日の記述。「盗人10人、子一人等、釜にて煮らる」と記されていますが、ここには五右衛門の名前は登場しません。しかし、同じ時代に日本で活動していたスペイン人の宣教師が記した「日本王国記」では、処刑された人物の名前「Ixicava goyemon(イシカワ ゴエモン)」が現在でも確認できます。日本王国記はさらに、五右衛門の妻子や両親、5親等までの親族が処刑されたと記しています。釜ゆでという惨忍極まる処刑、そして親族に至るまでの徹底的な「抹殺」。一介の盗人にしては、五右衛門の刑罰の重さは見せしめのレベルをはるかに超えている…と考えられないでしょうか。
「関白秀次の家臣・木村常陸介(きむらひたちのすけ)から、太閤秀吉の暗殺依頼を請ける。五右衛門は伏見城に潜入し、丑三つどきに秀吉の部屋に忍び込むが気付かれ、駆け付けた侍従たちに取り押さえられた」
秀吉の甥・秀次には、叔父を暗殺する動機が充分にありました。関白の位を譲ってもらい、やがては後継者になるはずが秀頼の誕生により完璧な疎遠状態となり、その地位から一気に転げ落ちたのです。そこで、最も優秀な仕事人に仕事を依頼したというワケです。
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