2013年6月9日日曜日

アメリカン・モンスター「ウサギと猫」


アメリカには、モンスターがお好きな人々が多いようです。そんなお国柄が生み出した怖い怪物をふたつ、今回は紹介します。

 

まずは、バージニア州フェアファッスのクリフトン周辺に出没するといわれる「バニー・マン」です。ハロウィンの時期に現れるモンスターで、その誕生は100年ほど前のある事件でした。クリフトンには異常犯罪者を収容する刑務所がありましたが、1904年の秋、閉鎖されることになりました。そこで、同じ州内にあるロートン刑務所に囚人たちを移します。しかし、彼らの護送中にバスが事故を起こし、その騒ぎに紛れて何人かの囚人が脱走しました。警察の強力な捜査網をかいくぐり逃げ延びたのが、ダグラス・J・グリフォンでした。彼の逃走後、この地域では木の枝にぶら下がるウサギの死骸があちこちで発見されます。地元の住民は恐怖に震えましたが、警察はグリフォンが州外に逃げたと判断。捜索を打ち切ります。人々は安心し、逃走犯の噂も消えかけた翌年、恐るべき事件が発生しました。この地域のトンネル内で、3人の子供の命が奪われたのです。しかも、トンネルの天井からぶら下がった姿は、あのウサギそのものだったといいます。以後、ハロウィンの時期になると「バニー・マンに襲われた」という報告が相次ぎ、トンネルには「バニーマン・ブリッジ」なる別名がついたのです。現在では、この場所で「バニー・マン」と3回言えればモンスターが現れるなんてお話にまで派生しております。

 

さて次のモンスターは、ノースカロライナ州の小さな町ブラデンボロの住民を、恐怖のどん底に落した「ヴァンパイア・キャット」です。事の始まりは1954年1月。この町のある家で飼われていた3匹の犬が、頭を噛み砕かれた姿で発見された事件です。以後立て続けに、この地域一帯のペットや家畜が全身を鋭い牙で噛まれ殺される事件が起きます。しかもそのほとんどは、血を全部吸い取られていたというのです。住民の恐怖はハンパではなく、女性や子供は昼夜を問わず外出せず、男性も銃を身につけなければ外に出られませんでした。多くの人の目撃証言により、事件の「犯人像」が明らかになります。体長1・5メートル、尾は1メートルほどの巨大な生物で、その動きや鳴き声は猫そのものでした。また発見された足跡から推測される体重は、なんと70キロ以上という、ライオンやトラも超える大きさで、「ヴァンパイア・キャット」と呼ばれるようになります。当局は、かなり大きな山猫と断定。実際、全米から集まったハンターたちの手で、巨大な山猫が捕獲されました。以後、ペットや家畜の被害はなくなりましたが、はたして、本当にそれがヴァンパイア・キャットだったのでしょうか。ブラデンボロでは、今もこの恐怖のモンスター伝説が語り継がれているそうです。

2013年6月8日土曜日

平家落人伝説の真実


1185年3月24日、「源平合戦」の最後の舞台・壇ノ浦の戦いに敗れた平家。その残党は落武者となって全国に散り、日本各地の山間部に隠れ住んで子孫を残しました。これが、世に語られる「平家落人伝説」です。この伝説は、北は三陸地方から南は奄美大島に至るまで約150か所の山間の集落にあり、とくに壇ノ浦に近い九州や四国、中国地方に多く語られます。壇ノ浦での平家の兵力は、船500隻とも1000隻ともいわれた大軍だったので、実際に逃げ延びた武士が中にはいた可能性はあります。しかし、彼らは源氏の追撃を逃れるため、その身分や素性を徹底的に隠したはずであり、史実として裏付けされる落人伝説はほとんどないといわれます。

 
平家落人伝説が全国各地に残るのは、「平家物語」が集落の存続のため活用された事に由来すると考えられています。つまり、「自分たちは平家の末裔なのだから、団結してその血筋を守っていこう」という意識づけです。その象徴的な場所が、岐阜県の白川郷です。現在は世界遺産としてよく知られた集落ですが、その前は文字通りの「陸の孤島」でした。それでも、独自の伝統を守り続けることができたのは、平家落人伝説により村人たちの結束が強まったからだそうです。

 
こうした各地の平家落人伝説の内容は、「村民全員の祖先が平家ゆかりの一族と信じられている」、「安徳天皇が隠れ住んだ里といわれる」、「平家一門の家系が存続しているとされる」の三つに大別できるようです。このうち三つ目には、史実と一致する本物の落人伝説と思われるケースがあります。石川県内にある時国(ときくに)家です。その祖先は大納言・平時忠(たいらのときただ)の五男、時国であり、この一族は身内を源氏に嫁がせることで免罪となり、能登に流されました。これは史実として「吾妻鏡」に記されていて、時国家の家史とも一致するそうです。そのため、時国家の落人伝説は真実と見る歴史家が多いのです。

 
それにしてもいにしえの時代、山深い場所を開拓し村を作ったのは誰だったのでしょうか。それは戦乱の世で大量に発生した落武者たちであり、厳しい環境を生き抜くため、「武士のブランド」ともいえる平家の子孫であることを信じ結束したと考えられています。その想いは次の世代へと受け継がれ、そして現在でも平家落人伝説として語られるのです。

2013年6月6日木曜日

平安サクセス・ストーリー「わらしべ長者」


転んだとき偶然手にした一本のワラが、最後には大きなお屋敷になります。そのダイナミックな展開と、ひとりの貧しい男性が幸福への階段を登って行くサクセス・ストーリーが語られる「わらしべ長者」。原型は「今昔物語」に記されており、「貧しくても、心が優しく豊かならば幸せになれる」という説話です。しかしその内容は、当時の経済状況や主人公の稀に見る「投機的才能」が読み取れる、実に奥深い物語なのです。

 

まずは、物語を簡単に紹介します。長谷寺に寝泊まりしていたひとりの男性は、ある夜、夢に現れた僧侶にこう告げられます。「寺を出るとき最初に手に触れた物を、大切に持って行きなさい」。翌朝、お寺の階段でつまづき転んで、地面に落ちていた一本のワラが手に触れました。男性はお告げを守り、ワラを持って旅に出ます。旅の途中で様々な人に出会い、ワラがみかんに、みかんが布に、そして布が馬にと変わっていき、最後は大きな屋敷の主に馬を譲ります。その馬で旅に出た主が戻らなかったため、男性は屋敷で幸せに暮らしたのです。

 

「今昔物語」は平安末期の書です。この時代の日本は、まだ貨幣価値が広く浸透しておらず、経済は物と物を交換するという価値観で成り立っていました。「わらしべ長者」の主人公は、夢のお告げの大切なワラを欲しいと言われて譲ったり、喉の渇きに苦しむ女性にみかんを差し出したりと、その優しさが随所に表れています。しかし、物語を詳しく読み解けば、お告げがあるまで観音堂に居座り続ける根性や、布と馬の交換のときも、三反の布のうち二反は手元に残すという「計算高さ」がありました。また馬も、それを受け取ってもらえそうな資金力のある人物に狙いを定めて交渉します。彼は平安時代の交換経済において、とても優秀な投機の才能を持っていたワケです。

 

わらしべ長者は、長谷寺の観音菩薩のご利益と、主人公の才覚で実現した平安サクセス・ストーリーと言えるでしょう。

2013年6月1日土曜日

エル・ドラドの黄金伝説


中世の大航海時代、海の彼方を目指した探検家たちの話として、黄金の都の伝説がヨーロッパに広がりました。その呼び名「エル・ドラド」とは、元はアンデス山脈北側の高地に住むムイスカ族の首長の事です。「金粉を塗る人」という意味のスペイン語であり、新しい首長が、就任の儀式で全身に金粉を塗り、聖なる湖に飛び込んで金粉を洗い流した事に由来します。その際、部族の人々はエメラルドや金の装飾品を湖に投げ込み、首長の就任を祝いました。これがやがて、「インカ帝国の北側に黄金の地がある」という伝説に変わったのです。

 

ムイスカ族が住んでいた場所は、現在のコロンビアの首都ボゴタ周辺と言われています。ただ16世紀ではそれさえはっきり判っておらず、古い地図にはエル・ドラドがあちこちに記されていたそうです。その不確定な地図を頼りに、数多くの探検家たちが黄金の都を目指しましたが、結果は酷いものでした。例えばドイツの総督ゲオルグ・ホエルムートは、1535年に400人の遠征隊を率いてエル・ドラドに向かいました。伝説の湖とされるグアタビータ湖の近くまで行きましたが、そのときの隊員は100人余り。気力も体力も、そして資金も底をついて国に引き返したそうです。その翌年に挑戦した同じくドイツ人の探検家ニコラス・フェーダーマンはさらに酷く、約1000人の遠征隊がムイスカ族の村に到着したときは90人にまで減っていました。現地の激しい気候や自然、マラリアなどの伝染病が、彼らの行く手を遮ったのです。

 

結局、ヨーロッパ人には発見できず、伝説だけが語り継がれた「エル・ドラド」。ムイスカ族は、本当に黄金の民だったのでしょうか。ボゴタ周辺に鉱山はありますが、金鉱は存在しない事が現在では解っています。ただ、ホエルムートやフェーダーマンがムイスカの村で大量の金の装飾品を見たのは事実です。これは、ムイスカ族の人々が交易で入手した金を細工して作った物でした。また1545年、エルナン・ペレスという人物が、グアタビータ湖の水をバケツで汲み上げるという人海戦術を展開し、3ヶ月かけて水位を下げ、湖に沈む数百個の金製品を回収しました。その40年後にも、スペインの商人が排水用のトンネルを掘り、金製品やエメラルドをたくさん回収したそうです。ただ、土砂崩れで計画は中断。20世紀になり、イギリスの企業がトンネル方式で再挑戦するも、やはり激しい土砂崩れと湖底の泥の硬さで断念しました。

 

黄金の都ではありませんが、アンデス山脈北側の小さな湖に、大量の黄金が眠っているのは事実です。ただしそこは、女神が宿る聖なる場所であり、その湖底に沈む物も、儀式で捧げられた聖なる品物です。お金に換算する価値観しかない人にとっては、まさに「永遠の伝説」であり続けるでしょう。

2013年5月31日金曜日

いのちと宇宙の物語


現在、約500万種類が存在すると言われる、地球の多種多様な生き物たち。そのすべての始まり、「最初のいのち」は、どこでどのように誕生したのでしょう。それは偶然の奇跡なのか。あるいは、意図的な計画だったのか。いずれにしても、気が遠くなるほど壮大な物語です。今回のお話は、心の視野をいつもより少し広げて読んで頂ければ、それなりに楽しいのでは…と思います。

 

現在確認されている世界最古の生物化石は、約35億年前の物です。そのため、地球に最初の「いのち」が誕生したのは、およそ40億年前と考えられているそうです。太陽から3番目の位置に、地球という名の惑星が生まれたのが45億年前。その原始の地球の大気に含まれていた水や二酸化炭素などが、紫外線、カミナリ、宇宙線といったエネルギーを受けて化学反応し、アミノ酸や核酸が合成されました。地球誕生から5億年の間に、この合成物が海に溶け込みタンパク質となり、「いのち」の元が生まれます。それが、姿ある生物に進化していったというのが、最も有力な説です。

 

しかし最近、世界最速のコンピュータでシミュレーションしたところ、数億年で生命が誕生するのは不可能という答えが出ました。そこで浮上したのが、地球の生命の源は宇宙から来たという説です。1986年におこなわれたハレー彗星の調査では、彗星の核から大量の有機物が発見されています。また、アミノ酸が発見された隕石もあります。さらに2001年、オーストラリアで回収された「マーチン隕石」からは糖やアルコール化合物が検出されたのです。アミノ酸はもちろん、とくに糖の発見は「いのちの宇宙飛来説」をかなり現実的な説にしました。

 

都市伝説っぽいお話では、地球の生命は異星人によって作られたという説もあります。はるか昔、高度な文明を持つ異星人が遺伝子情報を入れた膨大な数のカプセルを宇宙空間に放出し、そのひとつが地球に辿りついたと言うのです。つまり、原始の生命が生まれて進化し、人類が誕生して現在に至るまでは、異星人の「プロジェクト」なのだそうですよ。凄いお話ですが、これを大真面目に()提唱する人もいるのです。

 

「最初のいのち」は、地球の大気の化学反応で生まれたのか。それとも宇宙から飛来した糖やアミノ酸なのか。わたしたちがこの惑星で営むいのちの物語の幕開けは、現在も科学がその解明への挑戦を続けています。

2013年5月18日土曜日

王妃マリー・アントワネット最期の一日


「もう何も見えず、歩くことができません」。1793年10月16日午前3時ごろ、革命裁判所で判決を受けたフランス国王妃が、裁判所の出口でよろめき呟いた言葉です。牢獄に戻された彼女は、夫ルイ16世の妹エリザベト宛に遺言書を書きました。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきことです。しかし、無実の罪で断頭台に送られるわたしには、恥ずべきことは何ひとつありません。子供たちには、母の無念をはらそうなどと決して思わぬよう、そして愛しているとお伝えください。さようなら」。

 

運命の朝、食事係が朝食のメニューの希望を尋ねますが、アントワネットは「何もいりません。すべて終わりました」と小声で答えたのです。午前10時少し過ぎ、死刑執行人が牢獄を訪れ、彼女自慢の艶やかなロングヘアを短く切りました。それでもアントワネットは、涙のカケラも見せず背筋を伸ばして立っていたといいます。革命広場の刑場に向かう荷馬車に乗った彼女が纏うのは、真っ白いドレスと真っ白い帽子。自分の身の潔白を、最後の瞬間まで主張する強く気高い意思の表れでした。広場に到着すると、アントワネットは自ら荷馬車を降りて処刑台の階段を上ります。そして12時15分、「共和国万歳!」と叫ぶ数万人の民衆の声に包まれ、彼女の人生の幕が降りました。

 

フランス国内で革命の火の手が上がり始めたころ、「ひとカケラのパンを!」と声を上げる民衆を見たアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った逸話があります。これは、完全な作り話だったと現在では考えられています。当時の国の財政破綻は、戦費の拡大やアメリカへの多額の投資の焦げ付き、農業だけに頼っていた財源など様々な要因が重なって起きた事態でした。しかし、王政の打倒を目論む革命家たちは、そんな複雑な説明では民衆に理解できないと考えたのです。だから、民衆の負の感情をひとつに集中させることで、大きな波を起こそうとしました。その「的」が、フランス国王妃だったのです。

 

ヨーロッパ随一の名門オーストリア王家に生まれ、最後の瞬間まで誇りとプライドを貫いたひとりの女性。その想いと母の愛を綴った遺言書が、娘のマリー・テレーズの手に渡ったのは、処刑から23年後の1816年でした。

2013年4月6日土曜日

王道都市伝説「ピアス穴の白い糸」


このお話を聞いた覚えのある方は、多いのではないでしょうか。「口裂け女」と並び、その時代の一世を風靡した都市伝説です。

ピアスの穴を開けたいけど、お医者さんへ行く時間も費用も節約しようと考えた女性が、自分で耳たぶに安全ピンを刺します。しばらくして、その開けた穴から白い糸のようなモノが出てきて、それは引っ張ってもなかなか切れません。別に痛みもなかったので、さらに力をこめて引っ張ると突然切れ、同時に目の前が真っ暗になり、彼女は視力を失いました。

 

白い糸のようなモノは、視神経だったというオチなのですが、実際には耳たぶに視神経は通っていません。ピアスの穴と金属の間に溜まったシャンプーが固まったモノとか、耳たぶの脂肪分などが時間の経過で白い糸のようになり出ている事があるそうです。それでも、ピアスという身近なアイテムと、自分で自分の耳に穴をあける行為が招いた怖い結末が、完成度の高い都市伝説を生みだしました。派生バージョンでは、糸が切れる瞬間に眼球が一回転したなんてお話もあります。また、街中ですれ違う人に「ピアスしている?」と聞く女性がいて、「している」と答えると彼女はその人の耳たぶに噛みつくそうですよ。これが、糸を引っ張ったあげくに視力を失った女性だという都市伝説です。

 

「ピアス穴の白い糸」が広く語られたのは、1980年代です。美しくなるための美容整形が、まだ理解されていない時代背景があったのでしょうか。ご年配の方々に、「親からもらった体に…」などと言われ生まれた少し後ろめたい気持ちが、このお話を単なるウワサに終わらせなかったのでしょう。都市伝説の多くは、その本場アメリカから日本へ渡って来ますが、「ピアス穴の白い糸」は日本からアメリカへ伝わった数少ないお話のひとつなのです。