「もう何も見えず、歩くことができません」。1793年10月16日午前3時ごろ、革命裁判所で判決を受けたフランス国王妃が、裁判所の出口でよろめき呟いた言葉です。牢獄に戻された彼女は、夫ルイ16世の妹エリザベト宛に遺言書を書きました。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきことです。しかし、無実の罪で断頭台に送られるわたしには、恥ずべきことは何ひとつありません。子供たちには、母の無念をはらそうなどと決して思わぬよう、そして愛しているとお伝えください。さようなら」。
運命の朝、食事係が朝食のメニューの希望を尋ねますが、アントワネットは「何もいりません。すべて終わりました」と小声で答えたのです。午前10時少し過ぎ、死刑執行人が牢獄を訪れ、彼女自慢の艶やかなロングヘアを短く切りました。それでもアントワネットは、涙のカケラも見せず背筋を伸ばして立っていたといいます。革命広場の刑場に向かう荷馬車に乗った彼女が纏うのは、真っ白いドレスと真っ白い帽子。自分の身の潔白を、最後の瞬間まで主張する強く気高い意思の表れでした。広場に到着すると、アントワネットは自ら荷馬車を降りて処刑台の階段を上ります。そして12時15分、「共和国万歳!」と叫ぶ数万人の民衆の声に包まれ、彼女の人生の幕が降りました。
フランス国内で革命の火の手が上がり始めたころ、「ひとカケラのパンを!」と声を上げる民衆を見たアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った逸話があります。これは、完全な作り話だったと現在では考えられています。当時の国の財政破綻は、戦費の拡大やアメリカへの多額の投資の焦げ付き、農業だけに頼っていた財源など様々な要因が重なって起きた事態でした。しかし、王政の打倒を目論む革命家たちは、そんな複雑な説明では民衆に理解できないと考えたのです。だから、民衆の負の感情をひとつに集中させることで、大きな波を起こそうとしました。その「的」が、フランス国王妃だったのです。
ヨーロッパ随一の名門オーストリア王家に生まれ、最後の瞬間まで誇りとプライドを貫いたひとりの女性。その想いと母の愛を綴った遺言書が、娘のマリー・テレーズの手に渡ったのは、処刑から23年後の1816年でした。
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