2013年6月6日木曜日

平安サクセス・ストーリー「わらしべ長者」


転んだとき偶然手にした一本のワラが、最後には大きなお屋敷になります。そのダイナミックな展開と、ひとりの貧しい男性が幸福への階段を登って行くサクセス・ストーリーが語られる「わらしべ長者」。原型は「今昔物語」に記されており、「貧しくても、心が優しく豊かならば幸せになれる」という説話です。しかしその内容は、当時の経済状況や主人公の稀に見る「投機的才能」が読み取れる、実に奥深い物語なのです。

 

まずは、物語を簡単に紹介します。長谷寺に寝泊まりしていたひとりの男性は、ある夜、夢に現れた僧侶にこう告げられます。「寺を出るとき最初に手に触れた物を、大切に持って行きなさい」。翌朝、お寺の階段でつまづき転んで、地面に落ちていた一本のワラが手に触れました。男性はお告げを守り、ワラを持って旅に出ます。旅の途中で様々な人に出会い、ワラがみかんに、みかんが布に、そして布が馬にと変わっていき、最後は大きな屋敷の主に馬を譲ります。その馬で旅に出た主が戻らなかったため、男性は屋敷で幸せに暮らしたのです。

 

「今昔物語」は平安末期の書です。この時代の日本は、まだ貨幣価値が広く浸透しておらず、経済は物と物を交換するという価値観で成り立っていました。「わらしべ長者」の主人公は、夢のお告げの大切なワラを欲しいと言われて譲ったり、喉の渇きに苦しむ女性にみかんを差し出したりと、その優しさが随所に表れています。しかし、物語を詳しく読み解けば、お告げがあるまで観音堂に居座り続ける根性や、布と馬の交換のときも、三反の布のうち二反は手元に残すという「計算高さ」がありました。また馬も、それを受け取ってもらえそうな資金力のある人物に狙いを定めて交渉します。彼は平安時代の交換経済において、とても優秀な投機の才能を持っていたワケです。

 

わらしべ長者は、長谷寺の観音菩薩のご利益と、主人公の才覚で実現した平安サクセス・ストーリーと言えるでしょう。

2013年6月1日土曜日

エル・ドラドの黄金伝説


中世の大航海時代、海の彼方を目指した探検家たちの話として、黄金の都の伝説がヨーロッパに広がりました。その呼び名「エル・ドラド」とは、元はアンデス山脈北側の高地に住むムイスカ族の首長の事です。「金粉を塗る人」という意味のスペイン語であり、新しい首長が、就任の儀式で全身に金粉を塗り、聖なる湖に飛び込んで金粉を洗い流した事に由来します。その際、部族の人々はエメラルドや金の装飾品を湖に投げ込み、首長の就任を祝いました。これがやがて、「インカ帝国の北側に黄金の地がある」という伝説に変わったのです。

 

ムイスカ族が住んでいた場所は、現在のコロンビアの首都ボゴタ周辺と言われています。ただ16世紀ではそれさえはっきり判っておらず、古い地図にはエル・ドラドがあちこちに記されていたそうです。その不確定な地図を頼りに、数多くの探検家たちが黄金の都を目指しましたが、結果は酷いものでした。例えばドイツの総督ゲオルグ・ホエルムートは、1535年に400人の遠征隊を率いてエル・ドラドに向かいました。伝説の湖とされるグアタビータ湖の近くまで行きましたが、そのときの隊員は100人余り。気力も体力も、そして資金も底をついて国に引き返したそうです。その翌年に挑戦した同じくドイツ人の探検家ニコラス・フェーダーマンはさらに酷く、約1000人の遠征隊がムイスカ族の村に到着したときは90人にまで減っていました。現地の激しい気候や自然、マラリアなどの伝染病が、彼らの行く手を遮ったのです。

 

結局、ヨーロッパ人には発見できず、伝説だけが語り継がれた「エル・ドラド」。ムイスカ族は、本当に黄金の民だったのでしょうか。ボゴタ周辺に鉱山はありますが、金鉱は存在しない事が現在では解っています。ただ、ホエルムートやフェーダーマンがムイスカの村で大量の金の装飾品を見たのは事実です。これは、ムイスカ族の人々が交易で入手した金を細工して作った物でした。また1545年、エルナン・ペレスという人物が、グアタビータ湖の水をバケツで汲み上げるという人海戦術を展開し、3ヶ月かけて水位を下げ、湖に沈む数百個の金製品を回収しました。その40年後にも、スペインの商人が排水用のトンネルを掘り、金製品やエメラルドをたくさん回収したそうです。ただ、土砂崩れで計画は中断。20世紀になり、イギリスの企業がトンネル方式で再挑戦するも、やはり激しい土砂崩れと湖底の泥の硬さで断念しました。

 

黄金の都ではありませんが、アンデス山脈北側の小さな湖に、大量の黄金が眠っているのは事実です。ただしそこは、女神が宿る聖なる場所であり、その湖底に沈む物も、儀式で捧げられた聖なる品物です。お金に換算する価値観しかない人にとっては、まさに「永遠の伝説」であり続けるでしょう。

2013年5月31日金曜日

いのちと宇宙の物語


現在、約500万種類が存在すると言われる、地球の多種多様な生き物たち。そのすべての始まり、「最初のいのち」は、どこでどのように誕生したのでしょう。それは偶然の奇跡なのか。あるいは、意図的な計画だったのか。いずれにしても、気が遠くなるほど壮大な物語です。今回のお話は、心の視野をいつもより少し広げて読んで頂ければ、それなりに楽しいのでは…と思います。

 

現在確認されている世界最古の生物化石は、約35億年前の物です。そのため、地球に最初の「いのち」が誕生したのは、およそ40億年前と考えられているそうです。太陽から3番目の位置に、地球という名の惑星が生まれたのが45億年前。その原始の地球の大気に含まれていた水や二酸化炭素などが、紫外線、カミナリ、宇宙線といったエネルギーを受けて化学反応し、アミノ酸や核酸が合成されました。地球誕生から5億年の間に、この合成物が海に溶け込みタンパク質となり、「いのち」の元が生まれます。それが、姿ある生物に進化していったというのが、最も有力な説です。

 

しかし最近、世界最速のコンピュータでシミュレーションしたところ、数億年で生命が誕生するのは不可能という答えが出ました。そこで浮上したのが、地球の生命の源は宇宙から来たという説です。1986年におこなわれたハレー彗星の調査では、彗星の核から大量の有機物が発見されています。また、アミノ酸が発見された隕石もあります。さらに2001年、オーストラリアで回収された「マーチン隕石」からは糖やアルコール化合物が検出されたのです。アミノ酸はもちろん、とくに糖の発見は「いのちの宇宙飛来説」をかなり現実的な説にしました。

 

都市伝説っぽいお話では、地球の生命は異星人によって作られたという説もあります。はるか昔、高度な文明を持つ異星人が遺伝子情報を入れた膨大な数のカプセルを宇宙空間に放出し、そのひとつが地球に辿りついたと言うのです。つまり、原始の生命が生まれて進化し、人類が誕生して現在に至るまでは、異星人の「プロジェクト」なのだそうですよ。凄いお話ですが、これを大真面目に()提唱する人もいるのです。

 

「最初のいのち」は、地球の大気の化学反応で生まれたのか。それとも宇宙から飛来した糖やアミノ酸なのか。わたしたちがこの惑星で営むいのちの物語の幕開けは、現在も科学がその解明への挑戦を続けています。

2013年5月18日土曜日

王妃マリー・アントワネット最期の一日


「もう何も見えず、歩くことができません」。1793年10月16日午前3時ごろ、革命裁判所で判決を受けたフランス国王妃が、裁判所の出口でよろめき呟いた言葉です。牢獄に戻された彼女は、夫ルイ16世の妹エリザベト宛に遺言書を書きました。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきことです。しかし、無実の罪で断頭台に送られるわたしには、恥ずべきことは何ひとつありません。子供たちには、母の無念をはらそうなどと決して思わぬよう、そして愛しているとお伝えください。さようなら」。

 

運命の朝、食事係が朝食のメニューの希望を尋ねますが、アントワネットは「何もいりません。すべて終わりました」と小声で答えたのです。午前10時少し過ぎ、死刑執行人が牢獄を訪れ、彼女自慢の艶やかなロングヘアを短く切りました。それでもアントワネットは、涙のカケラも見せず背筋を伸ばして立っていたといいます。革命広場の刑場に向かう荷馬車に乗った彼女が纏うのは、真っ白いドレスと真っ白い帽子。自分の身の潔白を、最後の瞬間まで主張する強く気高い意思の表れでした。広場に到着すると、アントワネットは自ら荷馬車を降りて処刑台の階段を上ります。そして12時15分、「共和国万歳!」と叫ぶ数万人の民衆の声に包まれ、彼女の人生の幕が降りました。

 

フランス国内で革命の火の手が上がり始めたころ、「ひとカケラのパンを!」と声を上げる民衆を見たアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言った逸話があります。これは、完全な作り話だったと現在では考えられています。当時の国の財政破綻は、戦費の拡大やアメリカへの多額の投資の焦げ付き、農業だけに頼っていた財源など様々な要因が重なって起きた事態でした。しかし、王政の打倒を目論む革命家たちは、そんな複雑な説明では民衆に理解できないと考えたのです。だから、民衆の負の感情をひとつに集中させることで、大きな波を起こそうとしました。その「的」が、フランス国王妃だったのです。

 

ヨーロッパ随一の名門オーストリア王家に生まれ、最後の瞬間まで誇りとプライドを貫いたひとりの女性。その想いと母の愛を綴った遺言書が、娘のマリー・テレーズの手に渡ったのは、処刑から23年後の1816年でした。

2013年4月6日土曜日

王道都市伝説「ピアス穴の白い糸」


このお話を聞いた覚えのある方は、多いのではないでしょうか。「口裂け女」と並び、その時代の一世を風靡した都市伝説です。

ピアスの穴を開けたいけど、お医者さんへ行く時間も費用も節約しようと考えた女性が、自分で耳たぶに安全ピンを刺します。しばらくして、その開けた穴から白い糸のようなモノが出てきて、それは引っ張ってもなかなか切れません。別に痛みもなかったので、さらに力をこめて引っ張ると突然切れ、同時に目の前が真っ暗になり、彼女は視力を失いました。

 

白い糸のようなモノは、視神経だったというオチなのですが、実際には耳たぶに視神経は通っていません。ピアスの穴と金属の間に溜まったシャンプーが固まったモノとか、耳たぶの脂肪分などが時間の経過で白い糸のようになり出ている事があるそうです。それでも、ピアスという身近なアイテムと、自分で自分の耳に穴をあける行為が招いた怖い結末が、完成度の高い都市伝説を生みだしました。派生バージョンでは、糸が切れる瞬間に眼球が一回転したなんてお話もあります。また、街中ですれ違う人に「ピアスしている?」と聞く女性がいて、「している」と答えると彼女はその人の耳たぶに噛みつくそうですよ。これが、糸を引っ張ったあげくに視力を失った女性だという都市伝説です。

 

「ピアス穴の白い糸」が広く語られたのは、1980年代です。美しくなるための美容整形が、まだ理解されていない時代背景があったのでしょうか。ご年配の方々に、「親からもらった体に…」などと言われ生まれた少し後ろめたい気持ちが、このお話を単なるウワサに終わらせなかったのでしょう。都市伝説の多くは、その本場アメリカから日本へ渡って来ますが、「ピアス穴の白い糸」は日本からアメリカへ伝わった数少ないお話のひとつなのです。

2013年2月8日金曜日

都市伝説「海とタコと女性」


アメリカでは、こんな都市伝説が語られています。ロサンゼルスに住む10代後半の女性は、夏休みの間、毎日海岸へ遊びに行っていました。新学期が始まるころ、彼女は体調を崩します。体がだるく、食事もあまり喉を通らず、食べてもすぐに出してしまいます。その様子を見た両親は、夏休み中の、いわゆる「若さの勢い」が招いた事態ではないかと心配しました。しかし女性は、「親に言えない事は絶対していない」と強く否定します。実際、病院で受けた検査でもそれらしき兆候はありませんでした。ただ、月を重ねるごとに女性のお腹が膨れていきます。そこでレントゲン検査してみると、女性の子宮に大きな腫瘍のようなモノが写りました。すぐに、摘出手術です。そこで、医師たちは我が目を疑いました。腫瘍のように見えたのは、かなり大きなタコだったのです。

 

海を漂っていたタコの卵が、女性の体の中に入り成長したというこの都市伝説。日本で語られる「フジツボびっしり」によく似ています。アメリカの「海とタコと女性」は、1934年に誕生し西海岸で広く語られていたお話が、1948年に発刊された本に掲載されたちまち全国に広がりました。ただこのお話は、海で泳いでいた女性の口からタコの卵が入り、腸で成長する内容でしたが、これでは胃液で消化されてしまうと思われたようですね。そこで、「別の部分」から入るお話に派生したようです。

 

それにしても、人間の子宮でタコの赤ちゃんが成長するかなぁ…と考えれば、膝のお皿でフジツボが広がる日本の都市伝説の方が現実味ありますね。いずれにせよ、都市伝説独特の不気味さを味わえるお話ではあります。

2013年2月3日日曜日

「源氏物語」の謎あれこれ


平安時代に書かれた、日本の古典文学の傑作「源氏物語」。日本人に広く知られるこの作品は、現在でも解明されない多くの謎を秘めています。今回はその、「源氏物語」の謎を語ります。

 

この作品が世に出たのは、西暦1000年ごろというのが一般的だそうです。しかし、それも定かではないとか。作者とされる紫式部が記した、いわゆるオリジナル原稿は現存していないからです。現在、わたしたちが目にする源氏物語は、鎌倉時代に複数の人物によってまとめられた写本が原本になっているのです。しかもそれは、オリジナルを正確に書き写した物ではなく、当時、幾つか伝わっていた物語を整理した内容であり、当初の「源氏物語」がどのような内容だったかはほとんど解っていないそうです。

 

さらに謎なのが、作者の紫式部。いつ生まれ、いつ亡くなったのか、その本名、そして実在すらも疑う研究者がいるのです。「源氏物語」の作者に関しては様々な説があり、全54巻のうち、幾つかの巻をそれぞれ別人が書いたとする複数説や、実はほとんどが紫式部の父親の作品で、娘がそれを引き継いだという親子共作説があります。中でもわたしの興味を惹いたのが、歴史作家・藤本泉氏の男性作者説です。つまり、紫式部は男性だったかもしれないという、実に大胆な説なのです。藤本氏はその根拠として、「源氏物語」での描写を挙げています。紫式部には、娘がひとりいたとされています。なので、生後50日の赤ちゃんが笑ったり、7か月で歩くなどの描写は、子供を産み育てた経験のある女性では有り得ないと言うのです。そして、物語に登場する光源氏こそ、作者が自身を投影させたキャラクターであり、その人物は醍醐天皇の子・源高明(みなもとのたかあきら)だと主張しています。高明と光源氏の身上がとてもよく似ている事や、物語に描かれる宮中での行事を、実際に高明は「西宮記(さいきゅうき)」という記録書に残している事などが、この主張の根拠だそうです。

 

「源氏物語」のオリジナルは、どのようなお話だったのか。作者はひとりの女性で実在したのか。この謎は、もはや永遠に解明されないかもしれません。