2012年12月2日日曜日

元禄赤穂事件あれこれ


戦のない平穏な江戸の世に生きる人々を熱くした出来事。その発端から47人の志士の行動、そして最期までを「元禄赤穂事件」と言い、それを主題にした浄瑠璃・歌舞伎・講談などの一系統が「忠臣蔵」と呼ばれます。現在では時代劇の定番であり、日本人ならば誰もがよく知るお話ですね。その内容は今さら記すまでもないので、今回は、様々な資料の中から元禄赤穂事件の面白いお話を幾つか紹介します。

 

《 必ず当たる芝居 》

江戸庶民を惹き付けたこの出来事は、赤穂浪士たちの切腹から僅か12日後の1703年2月16日に最初の芝居が演じられました。当時は、徳川幕府が事実に基づいた実録風の芝居を禁じていたため、鎌倉時代の曽我兄弟の物語になぞらえて上演されましたが、3日間で終わってしまったそうです。しかし1706年、近松門左衛門が人形浄瑠璃でこれを演じ、また歌舞伎でも数多くの舞台が披露されます。幕府の思惑など吹き飛ばす江戸の庶民パワーで、その後は何度も上演され、芝居の当たり定番となりました。

 

《 松の廊下の真実 》

忠臣蔵の物語の中でも、とくによく知られた場面が「松の廊下」の事件ですね。例の「で…殿中でござる」です。この事件は、その場に居合わせ浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を押さえたと言われる梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)の日記に記されています。実はその日記には、「殿中」の場所が松の廊下だったとは記されておらず、研究家の中には表白書院の大廊下ではないかと考える人もいます。つまり、壁も襖も真っ白な場所で、それでは芝居にしたとき絵にならないと、劇作家が後付けで考えたかもしれないのです。

 

《 内匠頭の御馳走役 》

天皇の勅使をおもてなしする御馳走役、現代風に言えば宴会の幹事でしょうか。忠臣蔵では、これが初めての浅野内匠頭が慣れない仕事に戸惑うワケですが、史実はそうではないようです。実は17歳にして、朝鮮からの勅使の御馳走役に抜擢されており、江戸城内での仕事は3回目でした。しかも、前の2回も吉良上野介が指南役を務めており、ふたりの人間関係は、忠臣蔵に語られるほど悪くはなかったのです。

 

《 浅野家と吉良家の不思議な運命 》

赤穂浪士たちの残された家族で、とくに男性19人は遠島になりました。しかし、15歳未満は僧侶になる事を条件に遠島を免除されたのです。そして1709年には武家社会への復帰も許され、浅野大学は500石の旗本にまで復活しました。一方の吉良家は、当主の左兵衛が赤穂浪士を安易に屋敷に侵入させた事を理由に、領地を失います。つまり、警備が甘かったというワケですね。さらに、左兵衛本人が軽いケガだけだった事も、「逃げていたのではないか。武士にあるまじき姿」とされ、信濃の国に流されてしまいました。左兵衛はそこで病気になり亡くなります。22歳の若さでした。高家として栄えた吉良家は、ここで途絶えてしまったのです。

 

忠臣蔵の特徴は、物語の壮大さかもしれませんね。赤穂浪士をひとりずつ語るだけでも、47話が作れるのですから。最近はあまり見かけませんが、ひと昔前は12月になるとこの時代劇がテレビや映画に登場していました。そんな元禄赤穂事件の中から、わたしなりに選んだ面白話しでした。

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