どれほど掘っても、お宝は影も形も見えず…。150年以上の歳月をかけ、数多くの人々が挑戦し続けた「お宝探し」が、現在もなお伝説でしかないその理由は、ふたつしかありません。すでに消えたか、探す場所がまったく違うかです。日本史の謎として幾つか挙げられる中のひとつ、「徳川埋蔵金」。一時期、某テレビ局の企画で盛り上がったこのお話を、今、改めて語ります。
1868年4月11日。江戸城の無血開城でその金蔵へ入った官軍は、我が目を疑い呆然と立ちすくみました。そこは空っぽ。小判1枚残されていませんでした。およそ4年前から、幕府の終焉を察知していた大老・井伊の命により、勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)が幕府御用金の持ち出し作戦を極秘に行っていたのです。その額、360万両。さらに、作戦が慣行されていた時期、勢多郡赤城村(現在の群馬県渋川市)で多くの農民が、利根川の岸に着岸する船から武士たちが大きな荷物を赤城山麓へと運んで行く光景を目撃します。ここに、徳川埋蔵金伝説が誕生しました。360万両というお金は、当時のレートで円に換算すると約100億円だそうですよ。ただし当時の幕府に、これほどの財力は残っていなかったと言う研究家もいます。実際、勘定奉行の小栗が、フランスに600万ドルの借金を申し入れた記録があるからです。ただ、終焉目前だったとはいえ、徳川家420万石。江戸城の金蔵に小判1枚もなかったのは、どう考えても不自然ですね。
ちなみに、官軍が回収した幕府のお金はほかにもあります。大阪城の御用金、金座や銀座の貨幣、南北の町奉行が保有していたお金などで、その合計は90万両でしたが、70万両の行方が不明だったそうです。
さて、伝説の地となった赤城山麓ではお宝探しが始まります。30年以上掘り続けた人、親子2代で60年もの歳月をかけた一家、また戦時中は、軍が国家事業として発掘調査を行いました。赤城山麓は穴だらけで、地下はアリの巣のよう、現在もここに住み付き探し続ける「埋蔵金のプロ」がいます。それでも発見されない現実に、「場所が違うのでは?」と考える人は当然現れるでしょう。
埋蔵金研究の第一人者と言われる畠山清行(はたけやませいこう)をリーダーとする調査団が、赤城山麓より北の旧三国街道(国道17号)や旧沼田街道(国道120号)沿いの村で有力情報を入手し、ここを発掘し始めます。結果、総延長が約90メートルと思われる謎の横穴を発見しました。しかし、調査はここで中止。横穴が国道17号線の真下にあるという理由で、当時の建設省が埋め戻してしまったのです。横穴の中に何があったのか、あるいはなかったのかは、永遠の謎となってしまったワケですね。
この国道17号線沿いは、現在、新たな発掘スポットとして注目されているそうです。ただ徳川埋蔵金伝説は、その始まりから綿密に分析すれば、100億円のお金がどうなったかそれなりの仮説は立てられます。隠した場所を知る限られた一部の人々が、倒幕から明治新政府誕生までの間に回収したのです。つまり、元の持ち主に戻ったと考える、極めて単純な仮説です。360万両という小判の物量は、50両一束の包みが7万個以上で、もしそれが現在も残っているとすれば、その場所は土の中ではなく建物の中かもしれません。
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